京都鴨川藝術大学

Kyoto Kamo River Imaginary University of the Arts

『教師のための読書の技術』

『教師のための読書の技術』 香西秀信

純丘曜彰センセの追っかけ(?)をやっていることは先の記事で明かしたが、もうひとり追いかけている学者がいて、それが香西秀信センセだ。残念ながら一昨年お亡くなりになってしまった。専門はレトリック・議論術で、手に入る本は全て手に入れた(あと2冊がどうしても手に入らない)。どの本を読んでも顔がにやける。ニヤけっぱなしで顔面が痛くなる。実は初期に書かれた数冊の本を除けば、その他の本は全て、その数冊に書かれた技術を使って料理をした、というだけで、香西センセまたその話ですか、と言いたくもなるのだが、それは学知を利用したエンターテイメントだから良いのである。

で、本書。文章を書くために、いかに本を読めばいいか、というのがテーマだ。もちろん、既に何度か読んでいるが、ブログを書くに当たって、もう一度読み直したいなぁ、と思っていた。思い切り私見も交えて、端的に内容をまとめる。

形式は内容に先行する。言葉があって、考えが付いてくる。したがって、その人の表現方法をそのままモノにしてしまえば、その人の考え方をも自分のモノに出来るというのだ。だから、お前ら凡人は賢い奴の書き方を思う存分パクれ、というのである。そして、そのパクった書き方(=考え方)を用いて、自分で文章を書く。これを筆者は「借用」だとか「思考の転用」と呼んでいる。飽くまでも借用・転用するのは「型」であって、アイデアや意見そのものではないことに注意しなければならない。

この借用・転用は、著者の専門レトリックのお家芸であるという。膨大な量の議論を収集・観察し、そこに共通する型を見いだす。例えば、「電車で携帯電話がダメなら、大きな声で会話するのもダメでしょ」という主張と「容姿に優劣を付けるミスコンがだめなら、芸術的才能に優劣を付ける試験も許されないでしょ」という主張は、同じ「類似からの議論」によって組み立てられている。こういう論証形式を集めて、自分の武器として使うのが「思考の転用」というわけだ。この論証の型には5つほどあって、香西先生の著書には繰り返し出てくるので、気になる方は書店でお買い求めください。

ただ、「思考の転用」はなにも論証の型に限らず、良いと思った考え方なら、いくらでもパクってしまえばいい。例えば、「ヒエや粟しか食べられなかった、という記録が残っているということは、普段はそれ以外のものを食っていたのだ」という文と、「主家のために我が子を殺すという歌舞伎があったということは、それが非日常のものだったからだ」という文は、それぞれ「それが取り上げられたということ自体が、それの特異性を表す」という共通した考えによって組み立てられている、というように。

こういうことに気を配りながら本を読んでいけば、文章を上手く書けるようになる……かも知れない、と筆者は言う。私のようなドが付く凡人は、そんな風に意識的に読書をするのも大変なんだけどなぁ。だから、前にも読んだはずのこの本の内容が活かされないまま、いまもつまらない文章しか書けないでいる。

教師のための読書の技術―思考量を増やす読み方

教師のための読書の技術―思考量を増やす読み方