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京都鴨川藝術大学

Kyoto Kamo River Imaginary University of the Arts

『ピピン』

ピピン ガブリエル・マクリントン ブライアン・フローレス ほか

ミュージカル『ピピン』を観てきた。
渋谷ヒカリエ東急シアターオーブ。9/4 13:00開演。

中世ヨーロッパを舞台に王子ピピンが人生の意義を探す物語。世界史に疎い私は全く知らないのだが、彼は実在の人物らしい。とはいえ、それらは舞台の下敷きとして用いられているに過ぎず、飽くまでフィクションだ。

さて、王の子として生まれた青年ピピンは人生の意義を求めている。自分は一体何のために生まれ、こうして生きているのか。青年は、自分には他人とは違う特別な人生が用意されているはずだ、と信じて疑わない。自分を満たしてくれる何かが、きっと自分を待っている。青年はそれを知りたい。

しかし、人生の意義などそう簡単には見つからない。勇敢な兵士として戦うこと、性の快楽を堪能すること、王として政治を行うこと――。あれやこれやと手を出してみるが、あれでもなければこれでもない。残るのは虚しさばかりだ。絶望したピピンが彷徨の末に出会ったのは、子持ちの美しい未亡人である。彼女たちと何となく生活をしているうちに、青年はその場所にだんだんと馴染んでいく。だが、その先に待っているのは家長の椅子。青年が拒んだ平凡な人生がこの先ずっと続くのである。その人生には何か意味があるのか。そう思うと堪らなくなる。主人公は「特別な人生」を追い求めていたことを思い出し、そこから飛び出していく。

――もうお分かりだろうが、彼が最後に見つけるのは「身近にあった幸せ」である。彼は「自分にしか生きられない特別な人生」ではなく「平凡だが愛のある人生」を選ぶ。言ってみれば『青い鳥』や先日観た『オズの魔法使』と似たような結論だ。お約束のパターンなのである。

にも関わらず、このミュージカルはそれらとはまったく違う感動がある。それは、この劇が劇中劇である、ということから生じている。この劇は最後の数分を除いた全てが、王子ピピンの人生を再現した劇なのだ。「これからとっておきの劇をお目に掛けましょう。フィナーレでは一生忘れられない感動を皆様にお約束いたします」という狂言回しの宣言から幕が上がり、彼女によって劇は進行している。劇を支配するのは彼女で、ピピンの人生は、実は始めから終わりまで全てが決められているのである――。

「平凡な人生」を拒んで未亡人の元から飛び出してきたピピンを、狂言回しを含め舞台の役者たちが出迎える。彼女はピピンの「特別な人生」のために(冒頭から観客に約束していた)とっておきの「フィナーレ」を用意したと言う。それはピピンが燃えさかる火の中に飛び込み、炎とひとつになるというもの。光り輝く太陽を思い出せ、お前の人生を思い出せ、お前には夢があっただろう、お前の決断ひとつで「お前だけの特別な人生」が手に入るんだ、と周囲は囃し立てる。

しかし、火に飛び込もうとするピピンは、騒ぐ連中の隅に、自分を静かに見守る未亡人と子供の姿を見つける。平凡な生活の中にこそ自分の居場所があることに気付いた彼は、舞台を降りようとする。しかし、それを許さない狂言回しは、セットを解体し、衣装を奪い、音楽を消してしまうのだった。未亡人と共に去っていくピピン。舞台にひとり残った子供が「特別な人生」を求め旅立っていくことを暗示して、幕が下りる。

狂言回しは観客に向かって言う。この中にはピピンのように「特別な人生」を探している人がたくさんいるでしょう、私たちはあなたを待っていますよ、と。

夢は叶うとか、将来何にでもなれる、と大人たちは子供に向かって言う。子供は自分だけの「特別な人生」を思い描く。それを極めて風刺的に描いているのが本作でしょう。ピピンが火に飛び込むのは「死」だ。火に飛び込んで死ぬ。それは誰にも出来ない「特別な人生」に他ならない。しかし、それが求めていたものか。それに気付いて、ピピンは舞台を降りようとする。「特別な人生」など、究極的には存在しない。ただ、あなたには居場所がありますよ、満たされた人生というのは平凡に見えるものですよ、というのが劇の言わんとするところだ。

だが、こうも考えられないか。ピピンの人生は、劇において、役として全て結末まで決められている。とすれば、炎に飛び込むフィナーレも、ピピン(役の男)は知っていたはずだ。炎に飛び込むというパフォーマンスを成功させれば、観客からの喝采は間違いない。炎とひとつになることは、完全な美の象徴であり、光り輝く太陽のような、人々を照らす希望の象徴である。ピピン(役の男)は、あと一歩踏み出せば、夢を叶えられたのだ。

ピピンには炎に飛び込むチャンスが与えられていた。それはそれ自体が「特別な人生」であることの証だ。ほとんどの人間は、そんなチャンスすら与えられないからである。いや、本当にそうか。彼は寸前になって怖じ気づいてしまった。「特別な人生」を求める(一部の?)観客もそうではないのか。本当は誰にだって宿命的な人生が用意されているのに、先が分からず、恐ろしくてそこから逃げ出したのではないのか。劇は宿命だ。役も舞台もセリフも、全てがあらかじめ用意されている。我々は人生という劇において「自由」の名の下に、役を放棄しているのではないか。

物語の終盤、劇中劇でありながら、それが劇なのか劇中劇なのか、言い換えれば現実なのか作り物なのか、の区別が曖昧になっているのは、まさに人生が劇そのものだ、ということを表しているのではないか。分かりにくいので、少し言葉を補っておこう。我々は劇を観るとき、それが劇の世界であることを承知しながら、そこに自分を投影させ、あるいは同化させ、半分現実のものとして受け止める。劇中劇である以上、ピピンは死なないはずだから、あの炎を何かのメタファーとして捉えることは可能だ。しかし、ずっと物語世界に没入していると、劇と劇中劇の境界がぼやけてくる。だから、我々は火に飛び込むピピンが死によって人生を完結させようとしている、と解釈してしまう。これが意図的なものかどうかは知らないが、この極めて巧みな設定によって、観る者次第で正反対の解釈が生まれてしまうのだ。

正直に告白すると劇を観ている間は、火に飛び込むことが「死」の象徴である、ということは思いつきもしなかった。誰にも成し得ない豪快な自殺によって幕引き(フィナーレ)することを周囲が「特別な人生」だといって騒いでいる。それが恐らく作り手の意図である、ということに薄々感づいたのは劇が終わって少し経ってからであり、それをハッキリ指摘されたときはショックだった。私は作り手の意図とは正反対の、まるで独りよがりな解釈をして泣いてしまったのだから。確かに、作り手の用意したものの方が筋が通っているし、しかもそうなると、あの幻想的な雰囲気はまさに狂気だし、役者たちの笑顔が『世にも奇妙な物語』のように恐ろしくすら思えるのだった。自分の頭の悪さにも恐ろしさを感じるが。

それも仕方ないのか、ここのところ、私はまるでピピンと同じような苦しみを抱いて過ごしている。奇しくも8月29日の雑記で、似たような話をしているじゃないか。私は劇を観る前にあらすじを確認しない主義なのだが、まさかこんなタイムリーなミュージカルだとは思わなかった。

シルク・ドゥ・ソレイユ的なアクロバットや、ボブ・フォッシー・スタイルの幻想的なダンス、といった方面で話題になっているが、それらは決してメインではない。飽くまで裏方なのだ。全てが物語世界を支えることに徹している。極端な話、歌さえも、物語世界を構成する部品に過ぎない。これをミュージカルと呼んで良いのか。いや、これこそがミュージカルと呼ぶにふさわしいのではないか。タモリはこのミュージカルをこそ観るべきだ。

私は「フィナーレ」で泣いた。あのとき、私はピピンだった。太陽の輝き、いまの自分、思い描いた夢、それらがワッと自分に押し寄せて、私の目の前にも炎が見えた。私は飛び込みたいと思った。というより、飛び込む勇気が欲しいと思ったのだ。いまもあまり変わらないかも知れない。たとえそれが死を意味するとしても、である。ただ、私を優しく見つめる眼差しがあれば、その時は舞台を降りるのかも知れない。結局、その時になってみなければ私にも分からない。私は自分に与えられた宿命をこの目ではっきりと見届けるまでである。

Pippin  (2013 Broadway Cast)

Pippin (2013 Broadway Cast)