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京都鴨川藝術大学

Kyoto Kamo River Imaginary University of the Arts

『岸辺の旅』

『岸辺の旅』 深津絵里 浅野忠信 ほか

三年前に行方不明になった夫が急に帰ってきた。俺死んだよ、という。妻はそれを受け入れる。妻は夫と共に、夫の過ごした三年間を尋ねて旅に出る。

黒沢清。映画を物語として捉えない蓮實の門下生だけあって、やはり私はこの人の映画の良さがさっぱり分からない。きっと、あのシーンのあれは、フランスの何とかいう映画監督のいついつの作品の何々で、なんちゃら監督が得意とするチョメチョメの技法で、これこれを表現している、とかシネフィルはしたり顔で絶賛するんでしょう。いや、それが楽しいならそれで結構。私は映画料金を無駄にしたくないから、寝ないようにするので精一杯だった。こんなメリハリのない話の何が面白いんだろう。

浅野忠信がいつもの調子でヘラヘラと笑いながら登場して、深津絵里を誘って旅に出る。死んでるんだけど周りからも見えるし、生きている人間と何も変わらない、というよく分からない設定で、そういう人はこの世にはいっぱいいると言うことらしい。死んだ浅野には、そいつが死んでるか生きてるかが判別可能で、なんのこっちゃ意味不明な現象に出会ったときには、取って付けたような解説をする、という重要な役割を演じている。

構成としては、新聞屋パート、町の中華屋パート、農村パート、の三部。新聞屋はかつてした妻への仕打ちを後悔するジジイで、自分が死んでいることに気付いていない。気の良いオヤジかと思わせておきながら、当然のように浮世離れした言動が目立ち始め、この世を去る、というホラー。中華屋では、そこの女将が、年の離れた幼い妹にかつて酷いことを言ってしまい、彼女がそのまま死んだということを長年引きずっている、という長い独白をした後、急に妹が現れ笑顔を見せて、これは許されたということか。農村では、世話になった家の嫁が何かおかしくて、実は死んだ亭主が嫁に付きまとっている、という話。死んだ亭主と浅野は、同じ死人として顔見知りで、もうお前は死んだんだから奥さんを巻き込むのは止めろ的な、意味ありげな発言をする。これと前後して、深津絵里が死んだ父との再会を果たし、浅野を嫌う父に、私は大丈夫、とこれまた何の脈絡もない、唐突にも過ぎるやりとりが交わされる。浅野は農村で先生をやっていたらしく、無知蒙昧な農民ども相手に、なにやら教養講座のようなものを開講している。数年ぶりに現れたにもかかわらず、前回の続きをしましょう、とか言い出して、光子やら宇宙やらアインシュタインの話を始める。これも浅野独自の死生観みたいなもので、意味ありげ。もう終わるか? と思ってからが長い長い。

さて、この長い旅の終わりに、浅野は、深津に謝りたかった、と漏らす。その願いを叶えるためにもう一度現世に現れたのだと。深津は、その願いは叶ったよ、と浅野を受け入れる。うーん、私には浅野が終始ヘラヘラしていて、まったく切実なものを感じられなかったので、全然受け入れられない。第一、こいつ、自分の不倫がバレて責められているときにも「アイツは遊びなんだから」と悪態まで付くクズ野郎だ。ちゃんと謝れよ。

で、この映画、その不倫相手である蒼井優のパートが唯一面白い。農村に行く直前に、たった数分だけの、しかも別に必要ないパートなのにね。

まぁ、黒沢清の映画はやっぱり好きじゃない、ということがこれではっきりした。ただ深津絵里のベッドシーンだけは綺麗に撮れていたと思う。まぁ深津絵里が上手いんだけど。