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京都鴨川藝術大学

Kyoto Kamo River Imaginary University of the Arts

『映画理論講義』 第3章

『映画理論講義』 J. オーモン ほか

目次

第1章 視聴覚的表象としての映画
第2章 モンタージュ
第3章 映画と物語
第4章 映画と言語活動
第5章 映画と観客

さて、前回の終わりに宣言した通り、今回から量が膨大になります。自分でも引いている。当ブログの読者の皆様ならお分かりでしょうが、一番読みたかったのが本章です。ちなみに、I.(ローマ数字)→1.(アラビア数字)→(1)(括弧付き数字)→a.(アルファベット)の順に小さくなっていきます。

第3章 映画と物語

I.
1.
映画が物語と結びついた3つの理由
・表象作用そのものが物語を生じさせる。
・ストーリーの移行には時間を伴い、映画との共通点があった。
・芸術として認知させるために、小説・演劇同様の価値を提示する必要があった。
2. 物語映画と非物語映画を峻別するのは不可能。両者が互いの要素を持ちうる→古典的物語映画を過去の遺物とするのは不当だ。
3. 物語学と映画は互いに作用し合う
・映画に特有な意味形成の形を明らかにする。
・物語的映像と観察との間にある諸関係を形成する。
・映画的制度の社会的機能様態の探求
(社会的表象・編成の諸体系。/観客の心的作用を制御し、特的の社会的表象を流通させる、映画的制度。の、二つの機能について。)

II.
1. 映画は表象するものを非現実化し、見世物に変換する。観客は夢に似た体験をする。
2. フィクション映画の指向対象となるのは、カメラの前の人や物ではなく、そのカテゴリー・類型。
3.
(1) 「物語言表」=物語を引き受けるテクスト(映画は小説より複雑な要素。音楽の関与も考慮せねばならない。)物語言表は、読解可能な文法を持ち、内的な整合性(多用な要因によって決定する)を持っていなければならない。
「物語テクスト」=閉じた言説。始めと終わりがある。
ある言表が物語言表に属する→現実、架空を問わず、何らかの出来事を語るだけでよい。
(2) 「物語叙述」=物語を生産する行為、状況。
作者・語り手=作家主義……監督に芸術家としての地位を与えた。「作家=作者」とすることで、監督の意図を分析の拠り所のすることができたが、言語活動の機能様態を、心理と意識の領域に閉じこめてしまう。語り手は作者とは別人格で、監督は、モンタージュの型などの選択という点においてのみ、語り手と見なすこともできる。
(3) 「物語内容・世界」=物語のシニフィエ
想像的なものに属する虚構的な諸要素が、展開や拡張や最終的な解決を通して、互いに関連づけられていき、最後には首尾一貫した完結した全体を形作る。→物語言表から独立し、自らを現実世界のシミュラークルに仕立てる(=物質世界)。
物質世界は、物語内容が生み出すと共に、物語内容が依拠し、指向するもの。
物語世界は、観客が見終わった後に、再構成される物語ではなく、小出しにされ映画の情報や、自らの空想・記憶を元に描かれる物語内容で、「読解」を経ることで、一部始終を論理的に語れるようなものに確定する。
シナリオ=物語言表の次元において、物語内容を記述するもの
筋立て=物語内容の次元において、状況・人間関係・行動を簡略に述べたもの
(4)
a. 物語言表と物語内容の関係は、順序・持続・叙法
・順序:物語世界で先に起こったことを、物語言表の中で後から語る=フラッシュバック/その逆が、フラッシュフォワード。(錯時法における、後説法、先説法)
・持続:物語内容と物語言表の時間が一致することは稀。物語内容>物語言表、が一般的。(省略法)
・叙法:出来事の陳述を誘導し、物語言表が与える物語内容についての情報量を制御する。登場人物への焦点化=主人公・脇役に対して当然起こるもの。
b. 物語叙述と物語内容の関係「態」
物語叙述にしか属していない要素が、しばしば「物語世界化」される。
(5) 古典的映画において、物語内容はひとりでに語られ、物語言表や物語叙述は中立透明であるかのような印象を作り出そうとする傾向がある。→「物語」(発話行為の標識がなく、それが述べられる際の状況に関する指向作用が介在しない言表)と「言述」(発話行為の標識を持ち、それが述べられる際の状況を介して初めて理解できる言表)の関係と同類。
言述でありながら物語として振る舞う→現実のように予測不能で、人を驚嘆させるという価値を生む。物語の本質的価値。
但し、観客は物語叙述や言表作用の発現もある程度期待する→物語によって物語のうちに引き込まれる(一般的な)快楽と、言述(物語言表を進行させ、物語世界を構築させる手段)を味わう(映画通的な)快楽の2種類。
4.
(1)
フィクション映画の進行は「宿命予定による筋立て」と「解釈論的な文」の2つのコードによって調節される。
・宿命予定による筋立て=冒頭で、大まかな筋立てと、その結末ないし、少なくともその結末として予想されることを提示する。物語内容と物語言表の方向付けを行う。
・解釈論的な文=謎の設定から、その解決へと我々を導いていく、一連の中継段階からなる連鎖のこと
→この2つによって、映画は偶然に進展し、生の現実に従属するかのように見せかけることができる。例えば、主人公が痛めつけられるシーンは、勝利という筋に対しては抑制であるが、後に訪れる勝利の論理的予告となりうる。
(2) フィクション映画は、構成要素の数が有限で、組み合わせの数も限定されたいくつかの基本構造に支えられる。その物語は、
・不当な分離から、一連の変換を経て正常な結合に至る過程、あるいは
・不当な結合から、正常な分離がもたらされるまでの過程、に過ぎない。
これは、機能の連鎖(=プログラム連鎖)によって成り立つ。
プログラム連鎖の内的な組織化、継起、は限定されるが、機能が果たされる際の状況設定、人物の正確は自由に決められる。
(3) プロップ→「行動領域」(物語内部で果たす一揃いの機能)によって登場人物を定義する。
グレマス→「行為項モデル」(主体、対象、送り手、受け手、敵対者、補助者)。行為項は有限不変だが、登場人物は無限。フィクションの登場人物は、自らの果たす様々な機能を通じて、物語の進行に必要な変換を行う→一方で、物語の統一性を保証するものも登場人物となる。均質化と連続性の役割を担う。
映画のシナリオは小説や戯曲と異なり読まれない。映画の人物は演劇とは異なり、その役者1人に限られる。→映画の登場人物は、それを演じる俳優の肉体的特徴を離れて存在できない。
スターシステム=自社と専属契約を交わした俳優を起用。その俳優の固定イメージを利用し、リスク回避する。同じ路線で収入確保。→「スター」のための「オーダーメイド映画」

III.
1. 映画における表現素材の「リアリズム」とは、夥しい数の慣習や規則がもたらす結果に過ぎず、それらの要因は時代や文化と共に変化する。表象の様態に関して、先行する状態よりも現実性を増大させるものとして現出する。技術は絶えず革新されるが、現実そのものには決して到達しない。
2. 作品の題材のリアリズム→慣習の暴露によって現実性は増大するが、その暴露によって新しい慣習の体系を成立させてしまう。
3.
(1) 本当らしさは、世論や公序良俗との関係において定義され、その体系は良識によって形成される。世論は変化し、それに伴って本当らしさも変化する。
(2) 観客が物語や人物の行動が帰属する格言から予想できることは、本当らしいと見なされる。本当らしさは、物語の恣意性を自然なものに見せかけ、それを現実のものとして受け入れさせるための手段である。
機能を隠蔽するために必要なもの→本当らしさが暗黙の動機付けをなしていて、そのために何のコストもかからない
(3) 良識に反することでも、既に作成された映画作品のテクストに基づいて成立する本当らしさがある。作品の内容決定には「現実」よりも「過去の作品群」が大きな要因をなす。
(4) 表現内容の近似した一定の範疇でますます確固としたものになる→ジャンル効果
・典型な場面が作品ごとに反復される→本当らしさの強化
・ジャンル特定の本当らしさを打ち立てる

IV.
映画の特徴=現実感が生じる
・知覚の豊富さ→映像と音。
・映像による運動の再現→ファイ現象
観客の心的姿勢によって補強
・観客の警戒の度合いが低下する。
・膨大な視覚的印象を、連続した素早い流れで提供される。
物語世界からなる、世界の本当らしさの体系。映像が次々と現れては消える様子。
→自然発生的に、思いがけず出来事が生起するように見える。
同一化→観客は表象された場面に取り込まれ、いわば自分が立ち会っている状況の当事者になる。

さてどうだろうか。まず物理的に読みにくいことを謝っておかなければならない。けれど、内容としてはそれほど難解ではないと思う。まぁ、私が読みとれた内容を載っけているだけだから、難解なはずもないのだが。こうやって読み返してみると、学問っぽく厳密な(お堅い)物言いをしてくれている本書が急に頼もしく思えてくる。虎の威を借る狐って奴だね。もう読まないし手放そうかと思っている本をもう一度本棚に戻そうかと思ってしまう。しかし、続く第4章を読むと、そんな気も改めて失せるだろう。

映画理論講義―映像の理解と探究のために

映画理論講義―映像の理解と探究のために