京都鴨川藝術大学

Kyoto Kamo River Imaginary University of the Arts

『映画理論講義』 第5章

『映画理論講義』 J. オーモン ほか

目次

第1章 視聴覚的表象としての映画
第2章 モンタージュ
第3章 映画と物語
第4章 映画と言語活動
第5章 映画と観客

第5章 映画と観客

I.
観客=主体のこと
1. 仮現運動の成立→ファイ現象によって説明される。網膜ではなく、脳における現象。→ここに基礎をおいて、精神の芸術として捉える考え方展開される。
映画とは……
・精神の芸術=精神が現実に意味を与えるのと同様の仕方で、組織化された記録。クローズアップなど。
・記憶と想像の芸術=時間の圧縮、引き延ばし、リズム、フラッシュバック、夢の描写、モンタージュなど。
・情動の芸術=種々の情動は心理の究極的な段階をなし、それらは物語そのものの内に表現される。→映画全体が人間精神のメカニズムを模倣しつつ、それに働きかけるものである。映画は、フィルムでもスクリーンでもなく、精神の中にだけ存在し、精神がそれに実体を与える。
映画劇は、外的世界の形式、すなわち空間や時間や因果律を超越して、内的世界の形成、すなわち注意や記憶や情動に出来事を適合させながら、私たちに人間の物語を語る。したがって……
観客=映画が機能するもののこと。観念的、抽象的な映画を現実化する。「視覚は人間精神の創造活動」(心的過程による、補正、翻訳が行われる)
2.  どうやって観客に影響を与えるのか?→ソビエト映画作家たちによる考察。行き詰まったけど、重要な意義を持つ。
3. 映画学→心理的・生理的条件の問題を取り上げるところから始まった。
スクリーン上の映画が計測可能で、量的に処理できる心的過程の結果。
視知覚は、知覚する主体の能動的活動によって成り立つ。
知覚の差異を脳波によって分析する……医学的な内容。(対して、美学的に捉えようとする動きもある)
観客の心的人格が関与するあらゆる主観的事象を「観客に関わる事象」と呼ぶ。鑑賞中に感じるもの、観終わって抱く印象、観る前に見るポスターなども、観客に関わる事象を構成する。
4. 映像知覚=想像的。体験においては現前しながら、現実においては不在である。
映画世界と夢の世界の親近性
「投射=同一化」……主体が自らを世界に投射すると共に、世界を自らの内に取り込む。映画の技法は、投射(=同一化)を発生、促進、強化する。
カメラが人間の視知覚の過程を模倣する。
「夢と現実の複合」→観客にとって外在的物質性を提供することで、夢の特性に、現実の事物の正確さをまとわせている。
5. 観客の理論を築くためのアプローチ。4つの主要な視点。
・映画観客の欲望はどのようなものか。
入場料、2時間も暗闇にこもる……一体何を求めて?→自己放棄、孤独、欠如の状態に関するものに違いない。
映画観客は多少なりとも避難民であり、彼らにとって大切なのは、何らかの取り返しがたい損失を補うことであって、そのためには上映時間のあいだ、社会的に制御された、一時的な退行状態に陥っても構わない。
・映画装置の働きによって誘導されるのは、どのような観客=主体か?
映画スクリーンによって切り取られた光景を前に疎外感を覚えながら、登場人物に対して抱く一体感、窃視症的欲望、運動不能、視覚と聴覚の優越がある。
・夢、幻想といった、近似した状態との関連において、どのように位置づけられるか。
・映画そのものの進展において、観客の占める位置は?
「観客の理論」構築→議論が煩瑣になるので、「同一化」から考えていく。

II.
1. 「同一化」概念は、精神分析理論の中心的位置を占める。自我形成のメカニズム。
(1) 一次的同一化……人間主体はその存在の最も初期段階において、対象と主体、自己と他者が未分化である。
(2) 鏡像段階……鏡に映る自分自身を他者のように知覚し、かつそれと同一化することで、統一された自分を形成していく。
(3) エディプスコンプレックス……幼い男児が母親にリビドー的欲求を向け始め、父に敵意を感じる。しかし母親は禁じられた対象で欲望は満たされない。子供は憎悪する父と同一化することで、父の性的特権を想像的に享受する。(→エディプス的備給)
(4) 二次的同一化と自我……エディプス的備給の構造を引き継ぎ、それに代わって、自我・主体の人格を構成していく。次々と継起する同一化によって、自らを構築し続け、成長し続ける。
2. 観客は「欠如の状態」である。
(1) 同一化は、退行的性格を持つ
より未分化な段階へ。同一化によって、自我を再構築することで、欠如を埋めようとする。
(2) 同一化は、ナルシシズム的性格を持つ
欠如を自我の内に復元し、欠如を否認する。→自我に閉じこもった形での解決。(孤独を志向し、世界から身を引こうとする。→人は映画を観に行こうとする)
(3) 同一化は、口唇期の流れを汲む
上映の条件(暗闇、座って動かない、映像に晒される受動性)が、同一化を強化。
(4) 同一化は、昇華の根元。(防衛機制の昇華?)

III.
1. 映画における一時的同一化とは、観客が自分自身の視線に同一化し、自らが表象の源泉であると、特権的で中心的で超越的な視覚の主体であると、感じるような同一化のこと。
2.
(1) どんなストーリーでも、それをいくぶん自分のストーリーとして受け止めるような「始源的同一化」がある。主体と、主体の欲望する対象に距離があり、物語叙述の技法によって、欲望の実現が妨害される。この「欠如の状態」によって、同一化が始まる。
(2) 二次的同一化=登場人物への同一化。共感は同一化の結果であって、原因ではない。映画作品を語る際、人はその記憶について語る。記憶の中では、映画作品はより集約されるので、二次的同一化が強化される。登場人物を「タイプ」として捉え、これと同一化する、という形を取る。
3.
(1) 観客は人物そのものによってではなく、シチュエーションとそれを観客に提供する作用によって、同一化を決定されてしまう。
(2) 映画ではどんなにありきたりな場面でも、それが組み立てられる際には、絶えず視点や構図やフォーカスが変化し、よって描かれる場面に対する観客の視点が恒常的に移動して、その移動に伴う種々の極小的変化から、観客の同一化のプロセスに必ず変動が生じる。
4. 同一化のプロセスは「提示」や「物語叙述」といった、言表作用の作業がはなはだ決定的な役割を担う。→観客にバレないようにすると効果的。
5. 同一化というアプローチは、ひとつの賭け。他のアプローチもあることを忘れずに。

さて、以上で『映画理論講義』は終わりだ。「結論」もあるのだが、まぁもういいだろう。最終章も第4章の尾を引いて随分読むのに苦労した。しかし、比較的興味のある議論もあった。一観客として、映画を観ているときに自分に何が起こっているのか、何故感動するのか、はどうしても気になる。この章のメモについて、これまでと異なるのは、自分の言葉を使って大胆に簡略化したこと。だから、本文の意図していたものと大幅に内容が異なっているかも知れない。

にしてもだ。半分以上は自分のためにやっているとは言え、こうやって本の内容をそのまままとめたノートを載せることに何の意味があるんだろうか。私のまとめを読むくらいなら自分で本を読んだ方が良いに決まっているんだし。どうせ書くなら、どうせ誰も読まないなら、自分が思ったこと考えたことを書く方が良いよね。

映画理論講義―映像の理解と探究のために

映画理論講義―映像の理解と探究のために