読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

京都鴨川藝術大学

Kyoto Kamo River Imaginary University of the Arts

長い言い訳

皆さんご存じの通り、私は学歴コンプレックスです。しかし、いや、そうなのかな? と思うことがよくある。これはどういうことだろう。

結局、行きたくもない大学に行き、その帰結として(あるいは言い訳として)今の不本意な人生がある、と思い込んでいる。だから、目の前に東大やら京大やら、阪大やら一橋やら神大やら、という連中が現れると、いや、仮に受験生がそんな学校名を出して会話をしているのを聞いただけでも、凄く卑屈になる。

でも、私はなんで「行きたい大学」に、つまり京大に行きたかったんだろう。東大じゃなくて、京大だったんだろう。私がバカだから、さすがに日本一は無理だと思った? いや、そんなことを言ったら京大だって無理だろう。阪大だって十分すぎる、神大だって贅沢だろう。だったら、なんで――。

それはやっぱり、そこに思い描いていた夢があったからなんだと思う。こういう人たちと、こういう風に生活がしたい。そう思った時、そういう夢を持てた時、辛いその時の状況を、その先も辛いと思っていた未来を、大げさな話だけど変えられると思ったのだろう。極めて単純に言えば、自分に自信が持てる、と思ったんだろう。結果的に、その自信が得られなかったから、京大以外の名前を聞いても、私は凹んでしまうのだろう。だって、学歴を欲しがる時点で、自分の中身が空っぽだと言っているようなものではないか。

正直言うと、学歴なんてどうでも良い。これは負け惜しみで言うわけじゃない。良い大学に入って、良い会社に行って、あるいはステータスの高い職について、それなりの報酬を得て暮らすこと。それは立派だし、世間的一般的に幸せであって、みんな、それが手に入れば色々と楽になるし羨ましいと思っているのはきっと事実だ。

しかし、だからなんだというのだろう。それは、その人にしか生きられない、その人だけの人生なのか。産まれて生きて死ぬだけの人生で、「一般的に幸せ」であることは、果たして、唯一無二の意味を人生に与えるのだろうか。

医者、弁護士、高級官僚、有名企業社員、どれも立派だけれど、それが本当に自分がやりたい、そこにやり甲斐を感じられる、人生を賭けられるもの、と思えないのなら、日々の無意味に耐えられない私のようなバイトと、一体何が違うんだろう。

ここまで書いて気付いたけれど、私は、つまり「生きるために働く」というところに、どうしても無意味が循環しているように思えてしまうのだ。……生きるために働くために生きるために働くために生きる……と、どこから始まったか分からないものが死ぬまで続いていくように思えてしまう。そこでは、医者も弁護士もエリート官僚も有名企業社員も私のようなバイトも、程度の違いこそあれど、質としては全てが同じに思えてしまう。

だから、だ。少なくとも私は、学歴なんてどうでも良いのだ。どうせ仕事をしなきゃならないなら、良い学校に行って良い会社に入った方が、マシなのは事実。働きがいもあるだろう。でも、それは私の望む人生じゃない。私にしか出来ない、私に与えられた宿命のようなものを感じない。そんなものがあるのかは別としてもだ。

そして、やはり私は学歴が欲しい。良い大学を出ても人間的に最低な奴がいるとか、学歴はないけれど人格が優れているとか優れた業績を残している人がいるとか、そういうことはどうでも良い。他人に認められるとか認められないの話ではない。自分で自分を認められるかどうか、が問題なのだ。それは先にも触れた通り、私自身に中身がないから、自分の存在を外から保証するしかないということなのだろう。

となると、学歴などやはり要らないのかも知れない。それはもう「だって、いまさら」というたった一言に尽きるのではないか。なんにしても、こんなにこじれてしまうような高校生活を送った自分が改めて不憫になる。