京都鴨川藝術大学

Kyoto Kamo River Imaginary University of the Arts

によれば

学問っていうのは、世界(混沌)から、どの部分を切り出して、どう整理するか(秩序)という話に過ぎない。ゴチャゴチャになった世界を観察して、その設計図を起こすのが、きっと学問だ。

理数系の学問なら、数値として結果が出るから、かなり客観的なことが言える。ただ、切り取る部分がもの凄く小さい。実験をしてデータを取る、の繰り返し。研究者のやってることなんて、大半は単調な作業だろう。しかし、細かく切り出した世界の断片を集めていくうちに、これまでの設計図を破棄してもっと見通しの良いものを書く奴が出てくる。ニュートン力学から、アインシュタイン相対性理論に書き換えたように。

ところが文系の学問。確かに、頭脳明晰な人間の書いた設計図は、この世界の成り立ちを上手く説明しているように見える。かなり上手く図面を引いて、的確な説明に成功している例は、きっと少なくない。でも、大半はどうだ。混沌に秩序を与えるつもりで書かれたものは、結局、混沌に新たな混沌を付け加えているだけではないか。

それが証拠に、人文科学・社会科学の学者や読書家が、何かを語るときには必ずこう始まる。「~によれば」。マルクスによれば、ケインズによれば、ヘーゲルによれば、スピノザによれば、ライプニッツによれば、カントによれば、ヒュームによれば――。

こうやって、誰かがこう見た、ということを寄せ集めているに過ぎない。悪質なのになると、そもそも、そのカントなりヒュームなりが「そう見た」ということ自体を真実として疑わない。別に、そのオッサンがそう見たからって、世界がそうだとは限らんのだがねぇ。

アリストテレスによれば、劇は「はじめ・中間・おわり」の三幕に分かれる。世阿弥によれば、能も「序・破・急」の三つに分けられる。シド・フィールドによれば、映画も三幕に構成されている。けれど、ハワード・スーパーによれば、映画に三幕構成なんてない。

「~によれば」は参考にはなるが、どこにも事実なんてない。私によれば、結局学問ですら個人の好き嫌いに終始する。