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京都鴨川藝術大学

Kyoto Kamo River Imaginary University of the Arts

『世界から猫が消えたなら』

映画・ドラマ

『世界から猫が消えたなら』 佐藤健 宮﨑あおい ほか

日曜のレイトショーを見に行った。どれだけ観たかったんだよ私は。しかし、やはり期待しすぎると良くないね。正直、イマイチだった。原作は知らんけども、脚本に関して言えば、岡田惠和の良いところと悪いところがいっぺんに出てしまっている感じ。

郵便配達員の主人公は、ある日、脳腫瘍が見つかって、突然余命幾ばくも無いと宣告されてしまう。絶望を通り越して何も考えられなくなった主人公の目の前に現れたのは、自分と全く同じ姿をした「悪魔」。彼は主人公に、この世から何かを一つ消す代わりに、一日の命を与える、という取引を持ちかける。何が何だか分からない主人公は、その話に乗ってしまうのだった。そして、「悪魔」は、最初に消すものを電話に決めるのだが……。

この契約において「この世から一つものを消す」というのは、この先それが無くなってしまうというのではなく、そもそもそれが無かったことになってしまうということ。だから、過去にさかのぼってモノが消え、それに関連した事柄や人間関係も全て消えてしまう。第一に消えた電話は、主人公の彼女との出会いのきっかけだった。第二に消えた映画は、彼女との関係を深める原因となったものであり、親友と出会うきっかけであった。これらが消えたとき、彼女たちとの関係も無かったことになってしまう。

という話をするために、この映画、やたらと複雑に現在と過去を行き来するんだけれど、それが効果を生んでいるとは言いがたく、しかも全体的な構成としては串団子。宮﨑あおいとのエピソード、濱田岳とのエピソード、原田美枝子とのエピソード、と一つの串に刺さった団子を一個ずつ食っていくだけ。前菜から始まってメインディッシュに至るという思想に欠けている。それで、全体としても何が言いたかったのか、分からんではないが、巧くない。

「あなたは信じないでしょうけど、これはボクに起こった本当の話です」みたいな独白があるけど、このお話は脳腫瘍の主人公が観た幻影みたいなもの。「悪魔」は死を受け入れられない自分自身。悪魔の契約によって、自分が他人とのつながりの中で生かされていたことを確認した主人公が、自らの死を受け入れる、というのがメインテーマなのだろうが、あまり説得的ではないのだ。

そのテーマが明らかなるのが第三幕。悪魔が次に消すと決めたのは「猫」。主人公は幼少の頃から猫を飼っていた。それは家族との思い出であり、最愛の母との数々の思い出に直結している。主人公は、それを消さず、つまり自分が消えることを選ぶ。ということなのだが、「猫」っていうのが電話や映画ほどに因果律を強調しない。むしろ、主人公は、主人公の今後の人生を祈る母の思いに触れて、自らの死を選ぶんだから、方向が逆なんじゃないのか。それで、なんだか釈然としないままテーマもろとも感情で押し切って(こういうマイナスな面や状況というのも、見方を変えると)「それって幸せだと思う」という、よくある岡田イズムに陥ってしまっている。

それでもこの映画が成立するのは、その感情の押し切り方が巧いからで、ここは岡田惠和の面目躍如。母が遺した主人公宛の手紙と、死を目前にした母との対話、は恐らく平均的な家庭で育った日本人なら思い切り泣いてしまうんじゃないだろうか。あり合わせのモノで感動を作るということに関して、岡田惠和の右に出るものはいない。『ちゅらさん』とか『あいのうた』とか観なさいな。オリジナリティなんて欠片も無いのに、どこかで観たような聞いたような話ばかりなのに、逆にそれ故に、「これは私のことだ」と思わせることに成功している。それこそが、岡田惠和のオリジナリティだ。ここでも、それが炸裂している。

ただまぁ、ベタに過ぎるというのはある。雨の中を猫を探して走り回る主人公は絶対に転ぶし、郵便配達は自転車に決まってる。あれだけ雨が降っていたのに、ポストから飛び出ていた手紙が全く濡れていないのは何でだよとか、泣きのクリシェを利用するために、描写が雑になっている部分も多い。作り手が力を注いでいるのは十分感じられたが、今年一番泣ける映画、ではなかった、私にとっては。