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京都鴨川藝術大学

Kyoto Kamo River Imaginary University of the Arts

二つの特徴

山田太一が脚本を担当した映画に『少年時代』というのがある。原作は藤子不二雄Aだったか。いわずもがな、名作である。

戦時中、富山(だったかな)に疎開した東京の少年の物語だ。主人公は疎開先で、あるガキ大将と出会う。両親を亡くした彼は祖父と幼い弟と3人暮らし。貧しい一家を支える真面目な少年として大人たちの評判も良い。主人公は優しく強い大将を慕い、大将も純粋で芯の強い主人公を認め、二人は親交を深めていく。ところが、学校での彼は別人だった。飽くまで大将として振る舞い、暴力でクラスを支配しようとする。主人公に対しても、それは例外ではなかった。そんな大将に、主人公は戸惑いを覚える。それからしばらくして、病気を理由に休学していた金持ちメガネが復学してくる。彼は大将による恐怖政治からクラスを取り戻そうとクーデターを企て、主人公にも参加を呼びかける。空気に押されて参加することになってしまった主人公が次の日から目の当たりにしたのは、壮絶なイジメだった。大将を気の毒に思い、心配そうに声を掛ける主人公に対し大将は、お前もいじめられるから俺に構うな、と言って去って行く。イジメは続き、大将とまともに話すことも出来ないまま、戦争が終わり、主人公が東京に帰る日がやってくる。主人公は対象に別れの挨拶をしに行くが、会えない。そこで、宝物だったベルトのバックルを置いていく。これに気付いた大将が、主人公の乗った汽車を追いかける。言葉は交わせないけれど、二人はわかり合う。そして、別れる。

この映画を見て思う。映画に劇的な進展は必要なのだろうか。たとえば私の最も好きな映画『八日目の蝉』だって、終盤までは退屈と言って良いほど、時間は長いし、みんな鬱屈としていて感情をあまりあらわにしない。それが最後のほんの一瞬にすべてを解放して、とてつもないエネルギーが発生するのだ。この映画だってそうだ。結構だるい。でも、煙を上げて走る列車を追いかける、あの芝居の下手な(それ故にますます感情がハッキリしない)少年の全力疾走は、ため込んだエネルギーを一気に爆発させる。それで胸を打つ。

私がこの映画でもう一つ好きなのは、主人公が東京に帰る日のワンシーンだ。東京から母が迎えに来て、主人公の世話になったおばさんと、戦争中の積もる話をしている。主人公は、もう帰るんだ、と思う。久々に合う母親にどこか気恥ずかしさを感じるのか、少し離れたところで手持ちぶさたにしている。そこに、この家の主人であるおじさんが現れる。帰れるぞ、良かったな、と声を掛けられて、主人公は大泣きする。辛かったこと、悲しかったこと、そのほかいろんな思いが、一気に押し寄せてきて、我慢できないのだ。あぁ、と私は思うわけ。そうだ、私も子供のとき、そうやって泣いたことがあったなぁ、って。目の前にいつもの優しい人が現れて、緊張の糸が途切れて、押しとどめようのない涙が出てきたなぁって。忘れていたなぁ、って思うわけです。

つまり、私の好きな物語というのは、次の二つの特徴を備えている、と思う。ひとつは、映画全体が、導火線の長い爆弾に例えられるような作りになっている、ということ。二つ目に、忘れていた感情を思い起こさせ、その思い起こした感情がそのまま感動に結びついている、ということ。

だから、泣ける映画とかいって、序盤や中盤にところどころ泣けるポイントがあるようでは、きっとダメなのだ。退屈させないように、しかし、爆発はさせないように爆弾を仕掛けて、最後の最後に、忘れていたものを思い出させる。これが(私が)感動する映画のパターンらしい。