京都鴨川藝術大学

Kyoto Kamo River Imaginary University of the Arts

無意味の循環

人間は何のために生きているのだろう。と、いわゆる「哲学的」なことを、最近本当によく考えるようになった。人間に生まれた理由も、生きる理由もないのさ、なんて格好をつけてみても、生まれた以上、死ぬのは容易でなく、生きざるを得ないという現実は変わらない。人生は自己満足で暇つぶしだ、などと達観したように語ってみても、自己を満足させるほどの暇が一体どれだけあるというのか。

本当に分からないのだ。どうして、みんな生きているの。どうして、生きていられるの。どうして、生きていようと思えるの。

負け惜しみから言うわけじゃないけれども、良い学校に入って、良い会社に入って、という人生に、一体どれほどの意味があるんだろう。公務員のように「安定」を目指す人生に、何か意味があるのだろうか。確かに、金は手に入るだろう、豊かな暮らしは出来るだろう。しかし、人は豊かに暮らすために生きているのか。それは生きるために生きている、というトートロジーに過ぎないのではないか。

生きるために働く、となると、人生の目的は「生きること」になってしまう。その意味のない同義反復を支える「働くこと」を目指して、子供は大人になっていく。まさに無意味が循環している。

いや、これは極論だ。それは分かっている。良い学校に入ることが無意味だとも私は思っていない。ある人が言っていた。舌がなければ料理が味わえないのと同様に、頭がなければ人生は味わえない、と。飯を食うのが生きるためだけではないように、「生きる」のは生きるためだけではないのだろう。人生は、味わうことが出来る。そう考えれば、良い学校に行くために勉強したり、良い学校に行って勉強したり、良い会社に入って、あるいは立派な職について「安定」を目指す、ということの中にも、あるいはそれ自体が、味わいのうちなのだろう。

良い学校・良い職場、と「良い」だけをいったが、プラスだけが味わいではない。喜びのみならず、苦しみや悲しみでさえ、味わうことは出来るに違いない。しかし、と思う。そんな味わいのある、味わう余裕のある、味を感じられる人生を、どれだけの人が生きているというのか。

苦いだけの人生はつらい。とはいえ、無味乾燥な人生ほど残酷なこともあるまい。人生そのものが無味無臭なのか、あるいは人生に対する味覚障害なのか。考えても、悩んでも、答えは出そうにない。