京都鴨川藝術大学

Kyoto Kamo River Imaginary University of the Arts

メモしなきゃダメだ

イデアと言うほどのものでもないが、自分なりに筋の通った意見だな、と思うようなものが、寝起きだったり寝しなだったりに思い浮かぶことが時々ある。たぶん、皆さんもそうでしょう。しかし、これ、メモを取っておかないと絶対に忘れる。ここ数日で、確実に2つ、私は何かを忘れている。別に大したことじゃないだろう。大したことじゃないから、忘れてしまったのだ。そして、大したことじゃないからこそ、もう絶対に思い出せない。

いや、一つを思い出した。たったいま、これを書きながら思い出すきっかけが掴めた。

映画は芸術か娯楽か、という話だ。以前も、これと同じ話をした。そのときは、芸術映画と娯楽映画の区別自体に意味は無いが、作り手が芸術を志向するか、娯楽を志向するか、という違いはあるだろう、というようなことを言った気がする。そして、芸術を志向して作られた作品が娯楽的価値を持つことはないだろうが、娯楽を志向して作られた作品が芸術的価値を持つことはあるだろう、たとえばヒッチコックのように、というようなことを言ったのではないか。

これを少し言い換えたい。芸術映画と娯楽映画の区別自体に意味は無い、という立場は変えない。世の中に、面白い小説とそうでない小説があるだけで、もはや純文学と大衆小説の区別に意味が無いように、映画も、面白いものとつまらないものがあるというだけだろう。おおむね、芸術映画と呼ばれるものがストーリーをおざなりにした(つまらない)映画で、娯楽映画はその反対(だけど、必ずしも面白いわけではない)だ、というくらいか。

芸術を志向するか、娯楽を志向するか、というところを、次のように変えてみたい。「自分の表現したいものを作ろうとする」か、「観る者の琴線に触れるものを作ろうとする」か、という風に。このように表現することで、ますます芸術と娯楽の差は曖昧になり、その区別が無意味になってくるのではないか。

まず、自分の表現したいものを作ったところ、それが観客の琴線に触れることはままある、ということ。次に、「観る者の琴線」というものが究極的には作り手には分からないということ。だから、作り手は「観る者」を仮想する。それは自分に他ならない。つまり、「少なくとも自分の琴線に触れるもの」を作ろうとするわけだ。となれば、それは「自分の表現したいもの」に近似してくるのは当然ではないか。こうして、いわゆる「芸術」的な立場と、いわゆる「娯楽」的な立場は、循環する。

そんなことを、二度寝の最中に思いついたのです。やっぱ寝る方を優先しちゃうよね。