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京都鴨川藝術大学

Kyoto Kamo River Imaginary University of the Arts

『批評理論入門』

『批評理論入門』 廣野由美子

小説『フランケンシュタイン』を題材に、文学理論を解説し、実際にそれを適用して読み解いてみせる、という趣旨の本。二部構成で、第一部は技法・技巧という形式面から、第二部は批評理論という内容面から、小説を読み解いていく。

良書だ、と思う反面、それ故に文学理論のどうでも良さを痛感する一冊となった。

第一部の小説技法編については、これこれの技法を使うと、これこれの効果や意味が生じる、という話で、既知の内容が多い。ただ、作者が計算をし尽くした上で、おのおのの技法を用いている、というニュアンスはどうだろう。いうなれば、言語と文法の関係みたいなもんでね。この文法規則に従うと、これこれの言語的な効果や意味が発生する、といわれるけれど、話者は文法を意識して発話しない訳でしょ。そこに上手い下手があるのは当然で、上手いのは認めるけれども、それは唯一無二なのかな。別の方法を使っていれば、それはそれで「素晴らしい」という話になるんじゃないのかな。これは脚本を勉強していると痛感するんだけど、しばしば教則本にはAとB、正反対の技巧が例とともに挙げられていて、しかし、どちらもヒットした映画だからという理由でOKになってるのね。要は、結果論であり、こじつけであり、何でもありであり、必要ないとは言わないけれど、そんなご大層な話かな、と思う。

第二部の批評理論編については、聞いたことはあるものの、きちんと意味を知ったのは初めて、という話が多かった。ものすごく平たく言うと、どの立場で感想文を書きますか、ということだろう。作者の人生を踏まえるとか、描かれた当時の状況を踏まえるとか、あるいは性別という観点で捉えるのか、○○主義の立場で考えるのか。えーっと……どうでもよくね? たとえば、精神分析という観点からは、「怪物」は「フランケンシュタインの抑圧されたイド」であるとされる。マルクス主義の立場からは、「怪物」は「労働者階級」とされる。つまり、読者がそれぞれの立場で、小説のテーマとモチーフを妄想したり読み替えたりするわけだ。文脈を自分勝手に用意する、と言ってもいいか。そんなことは読者は誰でも、多かれ少なかれやっていることだろうけど、それが理論とか学問だっていうのはどうなのよ。

「学問」を前に、無駄という話をすると色々厄介なことになるし、別にその一言で切って捨てる必要もないとは思うけど、なんじゃこりゃという感じ。小説なんて所詮は作り物で、突き詰めれば、結局は個人の「おもろい/つまらん」だけの話じゃないのか。文学研究者とか批評家とか、偉そうに名乗ってるけど、「感想文販売業」でいいんじゃないか。それはそれでニーズのある仕事だろうし。

批評理論入門―『フランケンシュタイン』解剖講義 (中公新書)

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