京都鴨川藝術大学

Kyoto Kamo River Imaginary University of the Arts

才能パッカーン

脚本家の尾崎将也が昨今のシナリオ指南本を指して、ああいうのは例えるなら「車の構造」(良いドラマって何?)については載っているけれども「運転の仕方」(どう書けば良いの?)が載っていないようなもんで、だからいくら読んでも自分で作れるようにならないのでは? といった内容のツイートをしていて、そうそう、そうなのよ、と思った。まぁ、よーく考えてみると、この例えは絶妙にズレている。「車の構造」と対比するなら、その「組み立て方」とか「手順」とするべきだろう。とはいえ、ホント、言いたいことはよく分かる。私(たち)は、ドラマではなく、ドラマツルギーが知りたい。

それで、何度か触れているけれども、私は脚本家にこそ演技の力が必要なのではないか、と思っている。つい新しいアイデアを求めて、「視点を変える」とか「発想力を鍛える」といった方面に、それこそ発想が向かってしまいがちだけれど、そういう表面的なのは創作にはあまり役に立たないと思う。創作の要諦は、創作者の脳内でいかにドラマを繰り広げられるか。つまり、演技力だろう。私とは違う人間になって、私の脳内を自由に動き回る、ということだ。違う人間になるということは、当然、視点も発想も別人のものになるだろう。

ところで。誰しも、妄想に耽ってしまうことがあるだろう。このとき、妄想に耽っている自分を、自分で意識することは無い。妄想中は、私は私ではない誰かになっている。そして自分を意識した瞬間に、それは妄想ではなくなり、意識的に何かを考えているという状態に堕ちてしまう。そして、そこで全てが終わる。妄想はまさにふとした瞬間に、自分の知らないうちに始まってしまっている。無意識の産物なのだ。これを自分でコントロールできないだろうか。

現在勉強中だが、これは恐らく、スタニスラフスキー・システムと大いに関わってくる話だと思う。さらに言うと、これは(これもまた勉強中なのだが)ベティ・エドワーズの『脳の右側で描け』に出てくるRモードとも関係しているだろう。

つまりだ、天才でない私(たち)が上手く脳を使えるようにするには、一体どうすれば良いだろうか、ということだ。その手順・方法・訓練の仕方こそがドラマツルギーであって、今更これ以上、ドラマの構造なんて知る必要がない。

とかいいながら、『シナリオ構造論』をポチってしまった、というオチ。