京都鴨川藝術大学

Kyoto Kamo River Imaginary University of the Arts

発作

言わずもがな、私は負け組です。見ようによっては十分勝ち組と言えなくもないのだろうけれど、自分自身の負け組意識が半端ない。そもそも、勝ち負けを言う時点で立派な負け。本当を言えばそんなことにこだわりはない。別に立派な職業について、良い暮らしがしたい、とは思わない。いや、多少贅沢な暮らしが出来ればそれは申し分ないのだが。

負け組と言うより、負け犬といった方が上手くニュアンスが伝わるかも知れない。犬にも失礼だけれど。

私の身体は恐らく劣等感で出来ている。歪んだプライドでそれを制御している。ほんの少しバランスが崩れると、人を殺した夢から目が覚めたときのように、えもいわれぬ胸痛が走り、脂汗がにじみ出てくる。いわば発作だ。

高校時代(厳密には中学時代にも)、周囲から散々容姿を馬鹿にされた。最近は逆に人から容姿を褒められることがあって、ビックリするくらいだ。自分ではどうしようもない容姿のコンプレックス。見た目と中身は違う、と反発してみても虚しい。その反発自体が、中身の薄っぺらさを証明してしまっているのではないか。私の中身なんて、せいぜい、いや、良くて、普通じゃないのか。たかだか見た目を馬鹿にされただけで、随分苦しんだ。今だって、自分の姿には全く自信が持てない。

その後、高校がダメなら、大学で――と淡い期待を持った私は、自分が普通以下であることを思い知る。浪人したのだ。予備校には行かなかった。行けなかった、というべきか。行っても仕方ないのが明らかだった、というべきか。高校は通うだけで精一杯だった。毎日行っているだけで立派だと思った。きっと予備校も同じことになる。親に金を出させて、そんなことは出来ないと思った。親には予備校に行くと嘘をついて(後日お金は全額返した)、図書館に行ったり、街で時間をつぶしたり、家族のいない隙を見て自宅に帰ったりした。そんな生活を3年続けた。よくまぁ我慢してくれたなと思う。勉強にも力が入らず、ずーっと一人で、誰とも話せず、毎年受験に失敗した。どうしても京大に行きたかったけれど、そんなところを受けることすらままならなかった。結局、つまらない私大にかろうじて拾ってもらう形となった。

三浪の挙げ句、三流私大。高校時代、散々馬鹿にされた私は、その通り馬鹿にされるにふさわしい存在であることを自ら証明してしまった。私を馬鹿にしていた連中は、とっくに大学生で、しかも私なんかより「良い」大学に入っている。そう思うと、胸をかきむしる思いがした。何のためにこんなに苦しんだんだろう。

大学に入っても、浪人時代と変わらぬ生活を送った。人との関わりを絶ち、なるべく大学にも近寄らなかった。「意味」が生じるのが嫌だったのだろう。こんな大学、来たくなかったし、来る予定もなかったし、自分には本来歩むべき道があった、と思いたかった。だから、この大学に来て良かった、と思えるものを、一つでも残すことを拒んだのだろう。見事、というべきか、大学時代のことなど何一つ覚えていない。もっと言えば、高校の頃からの記憶がもうほとんど無い。ただ辛かった、という気持ちが残っているだけで。

いまでは、テレビで「東大生・京大生」というフレーズを見ただけで、電車内で受験生が大学の話をしているのを聞いただけで、屈辱的な人生がフラッシュバックして、あの「発作」が起きる。気が狂ってるんじゃないかと自分でも怖くなる。

ここ最近、臨時で別部署勤務をしているが、ここの上司が私の経歴を把握しているらしく、何の脈絡もなく皆がいる前で「頑張れ○○大学」と声を掛けてきた。特に意味は無い。話すキッカケが欲しくて、信じられないほど無神経な発言をしたというだけのことだろう。が、私は冷や汗が止まらなかった。この上司、折に触れて私の学歴の話を持ち出す。たとえば、資格試験を受けるように言われているのだが、「自分にでも受かったのだから、キミ(私)にでも受かる」と言ってくる。「だって○○大学だろ」と、こうである。この上司は、私より遙かに「良い」大学を出ているのに、「同じようなもんじゃないか」と言うのが、ますます腹立たしい。慶応出身の人間が、明治の人間に「同じだ」と言っているようなもの。この前など、自分は私の大学に落ちた、というようなことを言われた。私は金メダルは持ってるけど、銅メダルは持ってないなぁ、と言っているに等しい嫌味だ。

今の会社に入って一番良いのが、誰も学歴の話をしない、というところだったのに、そんな唯一の美点すらなくなってしまった。おかげで私は「発作」に苦しむ回数が増えた。一旦発作が起きると、もう何をする気も起きなくなる。ぼんやり天井を見つめて、なるべく心に波風が立たないように、無の状態に持って行く。気付けば寝ている。そして、朝である。朝になれば仕事だ。無意味が循環している。

ところで、ふと気付いた。私は、毎日の無意味を嘆いているが、意味が生じないことを、一部では望んでいるのだろう。だって、これは私が歩みたかった人生では無いのだから。そう思えば、無意味な仕事にも耐えられるかも知れない。ただ、無意味な人生には耐えられないだろうが。