京都鴨川藝術大学

Kyoto Kamo River Imaginary University of the Arts

弁証法なんて存在するの?

テーゼ(正)とアンチテーゼ(反)がぶつかって、そのどちらでもないがそのどちらもが包摂されるジンテーゼ(合)が生まれる(アウフヘーベン止揚))……という幼稚な理解しかしていないが、こんなことが果たして成立するのか。特に、議論。

ネットを見ていると、毎度恐ろしいほど同じパターンで、議論が行われている。というより、そもそもあれは議論ではないんだろう。ただの言い合い、ののしり合い、自分語り、自己肯定、他者否定。新しい見方は生まれないし、話は平行線をたどって、最後は人それぞれでいいじゃないか、「私は好きにした、君らも好きにしろ」でおしまいチャンチャン。

私は多様性といったようなものをほとんど信じていないところがあって、そこには新しい切り口が生まれる以上に、諍いが起こるデメリットがあると思っている。イスラム教の人とキリスト教の人は別々に暮らした方が良いだろうし、日本人と韓国人も別々の国に暮らした方がお互いのためだろう。学校で友達を作る時に、わざわざ気の合わない奴をメンバーに入れるか、を思えば、弁証法という原理(少なくとも私が理解している範囲の、おそらく世間に広く解釈される意味での、弁証法という原理が)が極めて不自然なものであることが分かる。

結婚相手は考えが似たような人間を選ぶと行き詰まるから、意見の違う人間の方がいいんだ、というような話をチラホラ聞くが、あれは逆に意見が合わず夫婦生活に齟齬を生じている人たちが自らを慰めているということなんじゃないか。

つまるところ、言葉は論理じゃなくて、感覚なのだ。人は論理で説得されない。言葉の感覚に触れて、肌に合うかどうか、でなんでも判断してしまう。意見の異なる人と言葉でコミュニケーションを取るのはほとんど無駄で、言葉の感覚が合う人を探すことの方が有意義ではないのか。話し合いをするにしても、なぁなぁで済んでしまわないように気をつけている限りは、後者の方がむしろ建設的な議論が出来ると思う。