京都鴨川藝術大学

Kyoto Kamo River Imaginary University of the Arts

スイカのない人生

何もない、というのが私の悩みだ。

中学生の頃にあるコンプレックスが発症し、高校で重篤化した。思春期といわれる時期に、募るのは自己嫌悪と自己否定の感情ばかり。私はすっかり大人になり損ねた。毎日毎日、コンプレックスに囚われ、身動きが取れなかった。

女の子と恋愛したり、一生懸命勉強したり、部活に打ち込んだり。私にはそんな思い出が一つだってありはしない。そういう人たちを羨ましく恨めしく思い、ずっと指をくわえて眺めてきた。

お前は楽しい一面ばかり見ているけれど、恋も勉強も部活も、苦しいことだらけだぞ、と人に言われたことがある。しかし、ゼロの人生ほど、生きていて虚しいものはない。まして、私はゼロを望んでいるわけではないのだ。

だったら行動せよ、と何度言われたか。他人からは甘えにしか見えないのだろう。仕方ないよなぁ。自分が自分じゃなかったら、多分自分のような奴を見て甘えているの一言で斬って捨てていただろうし。

誰も助けてくれない。運がいい人は、力ずくでも助けてくれる誰かに出会えたりするのだろう。私は自分で何とかするしかなかった。それで何とかしようとはしたのだ。そして、結果的になんともならなかった。

あれから15年近く経とうとしている。私は自分の力では何もすることが出来なかった。この先も、きっと何も出来ないんだろうな。ここまで来ると、もう失敗すること自体には特別何も感じない。むしろ、絶対にないだろうが、何かが上手くいくことの方が怖い。

スイカに塩を掛けると甘みが引き立つのと同じ話。私の場合はその逆だ。つまり、ずっとしょっぱい塩をなめているのに、たった一口だけ甘くみずみずしいスイカを食べてしまったら。その一口は天にも昇るような美味さだろう。しかし、それ故に、自分がなぜずっと塩をなめなければならなかったのか、もっと早く、もっとたくさんスイカが食べられたのではないか、食べられても良かったはずではないか、と手に入るはずだったものに思いを馳せてしまう。これは結局、塩をなめ続けて死んでいくより辛いのではないか。

これはドラマのテーマとなる話だ。このたった一口のスイカを味わうために戦おうとか、たった一口のスイカを味わえたことは味わえないより幸せだとか、たった一口のスイカの味わいはスイカを食べ続けてきた人に分からない格別のものだとか、そういう境地には私は達せないように思う。

そして繰り返すが、私の人生にはきっとスイカは登場しないのだ。だったらいいじゃん。うん、でもそれはそれで辛いだろう。ここが苦しさのポイントなのだ。