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京都鴨川藝術大学

Kyoto Kamo River Imaginary University of the Arts

物語に普遍的なテーマは必要か

まったく書けないのに、シナリオ創作の理論書ばかり読んでいる。こういうのは読めば読むほど書けなくなるような気がする。いま気になっているのは「テーマ」について。ドラマを書くに当たって「テーマ」というのは欠かせないテーマになっている。

そもそも「テーマ」は必要なのか、というところから、理論家・作家の意見は分かれる。まずテーマが必要だという人、テーマを見つけるために書くのだという人、書きたいことを書けばそこに自然とテーマが織り込まれるという人、テーマなんて要らないという人。見事にバラバラだ。

しかし、テーマとは何だろう。これも人によって、「テーマ」の意味のとらえ方が異なっている。たとえば、「働く女性をテーマにした……」といえば、それはただの題材だ。「愛がテーマです」というとき、それは物語の抽象的な背景になっていて、恋愛モノだとかハートウォーミング系だとかヒューマンドラマだとか、いわばジャンルや雰囲気に通じるものを意味している。これを「友情より愛が大事だ」といえば、それは物語のゴールとなり、推進力となって、初めて「テーマ」としての意味を持ちそうに感じる。

つまり、「テーマ」というのは、要するにこの話は何を伝えたいのか、ということなのだろう。とすれば、やはり「テーマ」は必要だ、と思う。ストーリーは、普通なら突っぱねられてしまうような話を、観る人の心の壁をぶち破って、相手に届ける手段なのだから。たとえば「頑張れ」と言われても、「頑張ってるよ」「これ以上何を」「余計なお世話だ」「他人事だと思って」と反発してしまうけれども、ストーリーを使えば、登場人物に与えられた「頑張れ」という言葉を、そこに投影した自分のものにして、すんなりと受け取ってしまうものだ。作者がストーリーにテーマを乗せないのなら、観客は何のためにストーリーを体験するのか分からなくなる。

ここで、うーん、と思う。そういう意味なら「テーマ」は必要だろうが、果たして普段見ている映画に、あるいは自分が感動した映画に、そんな抽象的な形の、一言で言えてしまうような「テーマ」は織り込まれているだろうか。そしてそれは、普遍的な形をしているのだろうか。

『オカンの嫁入り』という映画がある。ストーカー被害に遭って電車に乗れなくなってしまった主人公が、母親の突然の再婚宣言に翻弄される、という話。母は白無垢の衣装合わせに娘を付き合わせる(=電車に乗らなきゃならない)、という形を取って、娘のトラウマ正面突破を試みようとしていた。というのも、実は母の余命が幾ばくもなくて――。という映画。

ニート時代、あらゆる挫折が覆い被さって、社会に出るのが怖くて仕方なかった時代、私はこの映画を劇場で観て大泣きした。主人公の置かれた状況、その母の厳しい言葉と優しい言葉が、すべて自分に向けられているような気がしたからだ。

おかげさまでいま私は、曲がりなりにも社会人になることができて(それはそれでルーティンに陥っているのだが)、いまこの映画を観ても、あの時ほどの感動が味わえなくなってしまっている。ああ、そういう時期があったなぁと思うくらいだ。

この映画のテーマは何だろう。「母はどんな状況でも子を想うものだ」か「勇気を出せば立ち直れる」か「いざというとき人は本気になれる」か「大事な人がそばにいてくれることが何よりの力になる」か。多分、一言では言えないだろう。観る人によって違うテーマが見つかる、あるいは、複数のテーマが見つかるが、その比重が人によって異なるのではないか。

逆に言えば、映画にテーマなどないのかも知れない。仮に普遍的なテーマを用意したところで、結局人が感動し共感するのは、物語の具体性であり、その映画の中の状況をどれだけ観客が自分自身の状況だと信じられるか、に懸かっているのではないか。

物語に普遍的なテーマが必要か否か、というより、物語にテーマという普遍性が必要なのか、が最近怪しい。