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京都鴨川藝術大学

Kyoto Kamo River Imaginary University of the Arts

正しいものなんてない

「正しいものなんて無い」と思う。別に、斜に構えているわけじゃなくて、本当にそう思う。いや、○国人が主張する歴史より日本人の主張する歴史の方がまともだとか、○団連とかいうクズコミュニティが諸手を挙げて賛成の○PPとか絶対アカンやろとか、地震大国ニッポンで○○力発電なんて狂気の沙汰だとか、思わないわけじゃないんだけれど、それが正しいから賛成だとか、間違ってるから反対だとか、どーでもいいな、って。要するに、疲れちゃった。なるようにしかならないし、力を持った人が裏で糸を引いているんだから、むしろ我々にどうこうできる話ではないでしょう。なのに、なんでみんなそんなに一生懸命になれるんだろう。素直に凄いな、と思う。気力に溢れているのか、人間に対する信頼があるのか、未来に対する希望が捨てられないのか。それが羨ましい。

前にもどこかに書いたけれど、人は論理では説得されない。議論で打ち負かしても、自分が闇討ちの標的にされるだけで、相手の考えは変わらない。何かがキッカケで、それぞれに「正しいと信じるもの」が生まれてしまっていて、それはもう余程のことが無いと変えられないのだ。生理的欲求と強く結びついていると言っても良い。たとえば、マクドナルドのフライドポテトが大好きだ、という人がいたとする。その人はある嗜好を持って生まれ、ある日ポテトと出会い、両者は強く結びつく。

正しいとか間違っている、というのも、結局はそんな人間の嗜好に過ぎない。良い悪いではなく、それを解釈する人間が持って生まれた、好き嫌いの話だ。いくら客観的とされるデータを集めて提示したところで、それに反対する人がまた客観的とされるデータを集めて提示するだけのこと。正しい、間違っている、ではなく、正しそう、間違っていそう、という印象(要するに好き嫌い)と多数決で物事が決まり、それがいつの間にやら、良い悪いの話にすり替わっている、というのがお決まりのパターン。

まぁ、こんなこと私が言わなくても、昔からずっとそうで、みんな知っていることなんだろう。なのに、ネットでもマスコミでも、誰かが意見を表明して、誰かがそれを叩いて、それを叩いた奴を誰かが叩いて、と延々とやっていて、それをまたみんなで「議論」していて、もっと自分の好きなことやれば良いのに、と思う。というか、それが楽しいのかも知れない。議論とは名ばかりで、意見の合う友達を探す遊びだもの。

で、正しいものなんて無い、という以上、「正しいものなんて無い、というのも正しくない」と言っておかなくてはならないだろう。だからつまり、みんな好きにすれば良いんじゃないの、っていう話。言われんでも、好きにやってるしね。