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京都鴨川藝術大学

Kyoto Kamo River Imaginary University of the Arts

訳知り顔

メンタリストのDaiGoくんは人生の目標が「知識の最大化」なんだとか。それで一日10冊から20冊の本を読むらしい。えっ、一日にそんなに本を読むことは可能なんですか? 可能だ、と彼は言う。本1冊に含まれる情報のうち、その人にとって必要な情報というのは全体のおよそ10%に過ぎないのだと。本を読むというのは、この必要な10%を探す作業に他ならない。さらに、この本からこれを学ぼう、と決めてから読み始めれば、ますます効率よく情報を入手できる、と言うのだ。

ふーん、と思った。やり方、考え方は人それぞれ。たくさん読書していて、私なんかより圧倒的に知識量があって、その本代に1ヶ月100万をかけられるという程に成功している彼(同い年かよ)には何も敵わない。私なんてじっくり本と向き合っても10%も内容が吸収できているか怪しいから。でも、彼のやり方を聞いて思ったことが二つある。彼個人に対して思ったのではなく、一般的な事柄として思ったのだ。

まず一つ。読書というのは知識を仕入れるために行うことなのだろうか。それは読書という行為の一面に過ぎないのではないか。DaiGoくんは専門書・教養書・ビジネス書の類いを対象にしているから、「そんな読み方をしていたら、小説の味わいが云々」というような意見は的外れだろう。とはいえ、専門書・教養書・ビジネス書にだって、話の展開や流れ、いわゆる文脈と言われるものがあると思うのね。文脈の中で情報の持つ価値は変わってくるし、文脈自体にもまた何らかの価値があるんじゃないかしら。数学で言えば、公式だけ覚えときゃいいとか、答えさえ合ってりゃいい、というような態度に近い気がする。でもそれって、人間がやる必要のあることかな。ググれば誰でも一発で分かることは、コンピューターに任せておけば良いんじゃないのかな。こう思ったわけです。自分の読書姿勢を再確認するという意味においてもね。

それからもう一つ。これも自分に対する反省が多分に含まれているのだけれど、どうして本に書いてあったことを訳知り顔で人は語ってしまうんだろう、ということ。例えば、「本1冊に含まれる情報のうち、その人にとって必要な情報というのは全体のおよそ10%に過ぎない」って、何でそんなこと言えるの? そりゃ科学者の論文に書いてあったからさ、ってそりゃそうなんだ。そうやって人は知識を増やして発展してきたんだ。でもなぁ、となんか思うわけです。別に、その情報の正誤を疑っている訳じゃない。その情報の取り扱い方に品性が感じられない、とでもいうのか。他人の受け売りをしたり顔でしている奴というのは鼻持ちならないでしょう? あれに似ている気がする。それに科学知識というのは、暫定的に正しいとされていること、だからね。もっと言えば、私はものごとの正しい/誤り、というものをあまり信じていないから、余計にそう思うのかも知れない。とはいえ、その受け売りを、私もしょっちゅうやってしまうから、人の振りを見て我が振りを直さないとな、と思うわけです。

まぁ勝ち負け・正誤をいうなら、私は完全に負けてて間違ってると思う。DaiGoくんには要らなくなった本を譲って欲しい。それでは。