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京都鴨川藝術大学

Kyoto Kamo River Imaginary University of the Arts

独創性と大衆性

斬新で独創的であることと、多くの人に受け入れられること、これを両立するのが難しい。ただ独創的であるだけなら、それは独りよがりのゲージュツだ。ただ多くの人に受け入れられるだけなら、それは媚びを売った大衆○○だ。この二つを同時に満たすものこそが、本当の藝術ではないか。

ちょんまげを結って、紋付き袴に帯刀、という現代からすれば珍妙としかいえない江戸時代のお侍は、まさに世界的な藝術だ。斬新で独創的で日本人以外誰も思いつかなかったのに、日本の侍はみなあのスタイルだったのだから。

さらに言えば、それらは実用性に支えられている。ちょんまげを結うのは兜をかぶるからだし、和服は貧しい日本の知恵の一つだし、刀は仕事の道具だったわけでしょう。生き方と密接に関わっている。こういうのを総称して文化というんで、だから藝術は文化史で扱われるのだ。

しかし、文化史で扱われるような藝術は表面的なものに過ぎない。「一体、誰が考えたのだろう」というものの中にこそ藝術は眠っているのだろう。そういうものを作りたいとずっと思ってきた。私にとってそれが脚本だ。

一方で、それは私にとっての諦めでもあったりする。考えを言葉に起こすことと、その言葉を目に見える形にする、というところには大きな隔たりがあって、どうあがいても私に後者は務まらないことが自分でハッキリしているからである。

脚本家は、料理を作るシェフではなく、レシピを考える人だ。家を建てる大工ではなく、設計図を書く人だ。人の目を奪うスポーツカー……のエンジンを作る人だ。誰も見てくれないし、見てもらっちゃ困る人だ。

私自身は人に注目される願望は、心の底から微塵もない。ただ、そうやって人の目に直接触れる部分を作り上げていく人には、やはり憧れる。