京都鴨川藝術大学

Kyoto Kamo River Imaginary University of the Arts

独りよがりの「芸術」

そもそも芸術って何なんでしょう。多分ですけれど、それは人が繋がりを回復すること、と言えるんじゃないでしょうか。わかり合えない私とあなたがほんの一瞬でも繋がるとか、自分が長い歴史をつなぐ一部になっているとか、自分が大きな自然の中の一つであるとか、そういうことを感じさせるものを、芸術というんじゃないでしょうか。だから、映画というのは、娯楽であって、しかも芸術であると言えます。映画を見て感動したとき、孤独になりますか? むしろ、一人じゃないんだ、と思えないでしょうか。これが芸術の要件の、おそらく一つだと私は思います。

そうすると、おかしなことになります。芸術映画、というような言葉がありますよね。そもそも映画というのは芸術であるにもかかわらず、「芸術映画」などと言われる。このとき、芸術という言葉は本来とは違った意味で使われています。すなわち、「分からない映画」ということです。なぜ「分からないか」といえば、作者の内で、作品が閉じてしまっているからでしょう。作者にしか分かっていない、あるいは作者にも分からない、というものを、他人に理解できるはずはありませんからね。それをたまに分かってしまう人がいて、だからタチが悪いのですが、こればかりは好き嫌いなのでなんとも言えません。ただ確かなのは、「芸術映画」というのは、映画という芸術の中でも、間口が狭くて、繋がることのできる人が少ない芸術だ、ということです。

では、どうして芸術映画は、繋がることのできる人が少ないのでしょう。どうして、作者は自分だけに分かる、あるいは自分ですら分からない映画を作ってしまうのでしょう。それはおそらく、やはり、物語を軽視するからではないでしょうか。人は、動かない絵を見るときでさえ、作者の人生という物語を想像するのですから、2時間の動く写真を希薄な物語とともに見ることは、大変な苦痛と言って良いのではないでしょうか。

ここまでの話をまとめましょう。映画はそもそも芸術です。芸術とは人を孤独から救う手段の一つであり、良い映画は人を孤独から一瞬ですが救ってくれるからです。だから「芸術映画」という言葉は倒錯しています。それは「意味不明な映画」という意味であり、物語性を欠いた作者の独りよがりな映画を指す映画だからです。