読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

京都鴨川藝術大学

Kyoto Kamo River Imaginary University of the Arts

さようなら

先日言っていた犬がこの世を去った。思うところは色々。後悔は残るし、何より可哀想な奴だったな、と思う。生まれてまもなく親から引き離され、犬の世界のしきたりを知らないものだから、散歩に出かけても他の犬からは嫌われっぱなしだった。頭の切れる犬で、陰に隠れて悪さをするところがあり、人間からもストレートに愛情を受けられない奴だった。利口なだけに、ずっと一匹にしていても大丈夫で、そして実際にずっとひとりぼっちだった。

死ぬ直前に夜鳴きが酷くなり、歩くことも困難になり、家でケージに入れることになった。家のケージには既にこいつの息子が寝たきりになっていて、そいつの横に寝かせることにした。動きたいのに動けないからか、床ずれするからか、痛いからか、しょっちゅう鳴いた。鳴き止まないときはいったん起こして向きを変えたり、いったん立たせてみたり。それでも鳴き止んだり鳴き止まなかったり。息子に迷惑だろうと少し離して寝かせると、必死で動いてそのそばに寄ろうとしたりするのだった。そして、8日の21時前に死んだ。最期はひとりぼっちじゃなかったのだけが、唯一の救いだな、と思った。

段ボールで棺を作り、布団でくるんで収めた。父がそれをビニール袋に入れろと言って聞かず、段ボールもテープで閉じた。それを雨降る家の外に置く、というのでさすがに反対したが、腹が立った。死んだらゴミで、死体が気持ち悪い、という風にしか聞こえなかった。どちらが正しいというものではないだろうが、感覚が違いすぎる人間と一緒に生きていくのは辛いものだな、と彼には要所要所で思わされるのだった。

道ばたで生き物の死体を見ればギョッとする。むかし、自分の飼い犬が死んだら、怖くて触れないと思う、と言ったことを覚えている。でも、目の前にいる死んでしまった飼い犬はまだ暖かくて、愛おしさを感じた。目を開いて死んでいる様子が辛くて、ドラマでよく見るように瞼を閉じさせてやった。

9日の朝に市設の火葬場に連れて行った。私は行かなかったが、きちんとした斎場になっていて、最後にもう一度顔を見せてもらえたうえで、丁重に葬ってくれたといっていた。どうして私も行かなかったんだろう。やっぱり私は薄情なんだな。

ペットロスにはならないというか、私にはなる資格がないと思うが、別れはやはり寂しいものだ。これだけ長い間一緒にいたのに、一言も言葉を交わせないというのは辛い。うちで飼われて幸せでなかったとしても、せめて向こうで幸せになってくれたらな、と心から願わずにいられない。