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京都鴨川藝術大学

Kyoto Kamo River Imaginary University of the Arts

『早春スケッチブック』

早春スケッチブック 山田太一

古き良き日本のテレビドラマ。悪く言えば古くさい会話劇。だけど、扱っている内容はいま私が一番関心のある話題。辛気くさくて面倒くさいのは、テーマを見つめる真剣さの現れ。

大学受験を間近に控えた高校生の和彦は、家族との4人暮らし。未婚のシングルマザーだった都と、娘・良子を連れたバツイチの省一が結婚して出来た家族だ。かつてはぶつかることもあったが、いまでは本当の親子・兄妹として、家族みんな上手くいっている。ある日、謎の美女から声を掛けられ強引に一人の男性と出会うことになった和彦。「ありきたりだ」と男性から小さく生きることを非難された和彦は反発するが、自分がその男性に少し心引かれていることに気がつく。そして和彦は彼が本当の父親であることを直感するのだが――。

話、という話はない。母は本当の父親のことを頑なに隠そうとする。いまの夫に知られたくない、波風を立てたくない。しかし息子が会ってしまう。母も会ってしまう。男の方から来てしまう。夫にもバレてしまう。夫は怒る。会うことを禁止する。もとより会うつもりなどないと妻は言う。しかし、男の余命幾ばくも無いことを知って夫は態度を軟化させる。会うことを許そうと思う。すると、妻と男との距離が近づきすぎてしまう。やはり許せないと思う――そうやって、会う会わない、会いたい会いたくない、会いに行けよ行かない、と付いたり離れたりの繰り返し。全然話は進展しない。

議論が深まる、という訳でもない。小市民と自由人(?)の対立が本作の軸だ。小さくまとまって生きるのか、生きるということはもっと偉大なことじゃないのか、という答えの出せないテーマが、全編を真っ直ぐ貫いている。

主人公の父、母のいまの夫である省一は、小市民の代表だ。上司や顧客に頭を下げ、部下の前では本当は小さな自分を大きく見せ、毎日をこつこつと生きて家族を養う。誰もがそうやって生きている。悲しくても情けなくてもそれが生きるということだ。しかし、そういう並の生き方を、男は嫌う。真っ向から否定する。生活するために生きるなんてまっぴらだ、魂を揺さぶりたい、もっと能動的に生きたい。だから和彦が生まれて、都の前から消えた。

男にとっていい写真を撮ることが生きることそのものだった。しかし、病気になった。目に腫瘍が出来たのだ。それで満足に写真が撮れなくなった。情熱はなくなった。気がつけば自分には何も残っていなかった。家族もいない、友人もいない。治療をすれば目は見えなくなっても、生きていられるかも知れない。でも、それは生きているとは言えない。好き放題生きてきた自分は、せめて、死ぬことくらいすんなりと受け止めたい。男はそう思った。

でも、やっぱり怖い。という男のために省一が立ち上がるのがラストだ。なに、病気を治せるわけはない。しかし、小さく生きている自分にはとても出来ないことを、省一はやってやろうとする。誰でも出来るありきたりな人生を生きる、自分にしか生きられない人生を探して生きる、という互いの正論を散々ぶつけあった後、結局何も解決はしないまま、しかし山田太一は、ありきたりな人生の側から両者に光を当てようとするのだ。

私はますます分からなくなってしまった。山田太一は答えを出さなかった。というより、どちらも答えであって答えでない、というのが山田太一の答えだった。

早春スケッチブック (山田太一セレクション)

早春スケッチブック (山田太一セレクション)