京都鴨川藝術大学

Kyoto Kamo River Imaginary University of the Arts

味わう

人生なんて言うのはさ、生まれで決まるわけよ。美しいか醜いか、賢いか馬鹿か、金持ちか貧乏か。でも、そんなもん生まれてくる側には選びようがない。親だって選べないし、生まれない自由すら与えられないのだから。

そんなことを言ったら身も蓋もないじゃないか、というが、人生ってのはそういう身も蓋もないもんなのだ。努力がどうのこうのと、ありふれたことを言う奴がごまんといるが、醜い奴が努力で多少の改善に成功したとしても、美しい奴に努力されたらもう敵いっこないわけでしょう? 努力が無駄とは言わないけれど、まず宿命的な「生まれ」がドンとあって、そこにごちゃごちゃと絡みつく複雑な何かの構成要素の一つとして、努力は存在するに過ぎない。

でもさ、じゃあ、醜く生まれてきた奴、馬鹿に生まれてきた奴、貧乏に生まれてきた奴、そのほか身体に障害があるとか病気だとか、親がいないとか犯罪者だとか、そういう人間は幸せになれないのか、なっちゃいけないのか、というと絶対そんなことはないはずだ。確かに、そういう人間は、そりゃあ圧倒的に損をしている。だからといって、不幸なのだろうか。損は不幸なのか。逆に、得していれば幸福なんだろうか。

よく言うじゃない。お金じゃ幸せになれないって。それはさ、私たち貧乏人(あるいは中下流の庶民)には分からないけれども、きっと本当なんだと思う。もちろん、金はあった方がいいに決まってる。同じように、容姿は美しい方が、頭は賢い方が、良いに決まってる。良いに決まっているけれど、果たしてそうか。それが全てなんだろうか。

ご飯を食べに行ったとする。美味しかった。それが良いに決まっている。でも、そんなに美味しくないご飯も、君と一緒に食べたから美味しかった、ということもあり得る。クソまずいメシだったとしても、あのときのメシは本当にクソまずかった、と笑い話に出来たら、そんなに悪くない気がする。高い金を出したから美味いものが食えるとも限らない。満腹の時に食うステーキよりも、腹ぺこで死にそうなときに食うおにぎりの方がきっと美味い。

要は考え方次第、と言いたいんじゃない。人は人生を味わえるということだ。唯一無二のものを大切にすることが出来るということだ。ご飯を食べに行くということは、メシを食うことだけが全てではない。目の間にある食べ物の味にばかり気を取られたら、別の何かを味わえなくなってしまう。メシは美味くなきゃダメだ、美味いメシを食うことが幸せだ、なんて、どこかの誰かの価値観に過ぎない。そんなものに付き合う義理はあるまい。第一、「美味い」っていうのが人それぞれなんじゃないのかな。

自分の味わえる範囲で自分の好きな味が見つかったら、それは幸せなんじゃないかな。他の誰にも味わえない味を、いま自分が味わっているということが、生きている意味なんじゃないかな。