読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

京都鴨川藝術大学

Kyoto Kamo River Imaginary University of the Arts

純文学とあて書き

雑記

純文学の「純」って何だろう。それは「編集者がいっちょかみしていない」という意味ではないか。作家が命を削って書いたものを、売れるようにするという名目で書き換えさせるのが編集者だ。売れるようにするもなにも、何が売れるかなんて分からないし、書き換えなくても売れたかも知れないのに。なんにしてもそうやって作品に寄生し手柄を自分のものにして連中はのし上がっていく。

だから、作家は純粋に自分の表現を発表することが許されない。なぜ売れているか私にはさっぱり分からんが、村上春樹の小説が純文学とか言われるのは、かの作家が編集者よりも力を持ったために、書いたものがそのままの形で世に出されるからではないか。いや、実際のところはどうなのか私には分からないのだけれど。

脚本は、そもそもリライトを前提としているから、このあたりは少し事情が違うだろう。ベテランの脚本でも書き直しさせられるし、なんなら勝手に書き直されたりすると聞く。まぁ現場第一なんだから、そこは当然と割り切らないといけない。その代わりというか、脚本家が力を付けると、キャスティングにちょっとばかり注文が出来たり、その結果「あて書き」が可能になったりするんだと思う。

ただ、「あて書き」っていうのは、作劇としてはあまり高級ではないと私は思う。あの人にこんなことをさせたら、こんなことを言わせたらきっと面白いだろうとか、感動するだろうとか、そこが創作のスタート地点になってしまう。それはつまり、言葉や行動ではなく、人物像に全てをゆだねることになってしまう。

だってたとえば、「努力が大事だ」というような陳腐な台詞を、縁故採用で大会社に就職したどこかのボンクラ御曹司が言うのと、一流アスリートが言うのと、あるいは二流アスリートが言うのと、ホームレスが言うのとでは、まったく意味が変わってくる。誰が言うのか、誰がやるのか、が結局はどうせ全てなのだが、それを劇でやってどうすんだよ、ということだ。これは自己表現とはほど遠い、と私は思う。

まぁしかし、自己を表現するというのも改めて考えると恥ずかしいものだ。自分の考える自己ほど、他人の興味を引かないものはない。人の琴線に触れるものを作ること、が芸術家に課せられた使命だろう。問題は、他人の琴線というものが分からないと言うことだ。だから、人の琴線に触れると言って、とどのつまりは、自分の感動するものを信じるしかない、ということだ。

それで畢竟、私は何を言いたいのだろうか。