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京都鴨川藝術大学

Kyoto Kamo River Imaginary University of the Arts

「もしかしたら」のない世界

考えれば考えるほど、人というのは何故生きているのか分からなくなる。生まれたら、あとは死ぬだけ。ただ、その間が長い。そして、思い通りにならないことばかり。先が分かっているのに、どうしてこんなつまらないことを繰り返さなきゃならないんだろうと思う。私じゃなきゃダメなの? こんな無意味なことをするために生まれてきたの? とはいえ、思い通りに行ったって、やっぱり死ぬだけ。一体、何なのだろう。

この間、話の流れでつい上司に聞いてしまった。生きていて楽しいですか? 何が楽しくて生きているんですか? 一瞬、上司の顔が曇ったように見えて、自分が恐ろしいことを口走ったのだと改めて気付いた。もちろん、他意はない。上司の方もそれを汲み取ってか、私の質問にストレートに答えてくれた。「楽しいに決まってるだろ」と。もしかしたら嘘なのかも知れないけれど、あぁそうなんだと私は思った。私だったら、嘘でも「楽しい」なんて言えないもの。嘘を言うにしても「楽しい」というまでに、きっと変な間が空いてしまうと思う。

私に仮に楽しいと思う瞬間があるとすれば、それは現実の時間じゃない。物語の中にいる時間だ。ホント、どれだけドラマが好きなんだと思うが、気付けば引っ切りなしにテレビを見ている。

もしかしたら明日……。もしかしたら彼女と……。もしかしたら私は……。もしかしたら人生は……。そんな、現実世界の「もしかしたら」に干渉してくる。それがドラマだ。ドラマを見れば見るほど、その世界に逃げれば逃げるほど、かえって現実が諦められなくなってしまう。

とはいえ、現実の方の「もしかしたら」も歳を追うごとに枯渇してくる。全ての可能性が閉じられてしまったとき、もうドラマに逃げ込むことは出来ないのだろうか。そのときは一体、どこに逃げ込めば良いのだろうか。

「もしかしたら」が「あのときは良かった」になるのだろうか。私にそんな「あのとき」があっただろうか。「『あのとき』思っていた『もしかしたら』」をドラマが引き受けるのだろうか。