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京都鴨川藝術大学

Kyoto Kamo River Imaginary University of the Arts

出石と天橋立と

出石に行って皿そばを食った。なんかあんまり意味の無いシステムのような気もするが、積み上げた皿の高さが箸の長さと同じになると「通」なんだとか。私は17皿食べて、ギリギリ通と言っても良いみたい。20皿食べると手形を貰えるらしいと後で知って、もうちょい頑張ればよかったと思った。ただ、不味くもないけどメチャ美味という訳でもなく、単調なので結構早い段階で飽きてしまった。特にツユに甘みが少ないのは好みでなかったな。

「小京都」の前に「極」を付けたくなる位の規模の町で、あるのは蕎麦屋ばかり。どこもそんなに変わらないのだろうが、それ故にどの店に入れば良いのか迷う。結局、サービス券をばらまいていたデカい店にした(@鸛屋本陣)。味で競い合うというよりは、客引きで勝負してるみたいなところがあり、どこも有名人が来店したことをウリにしていて、観光地ならではのゲスっぽさが味わえる。町をプラプラ、というほども歩いていないが、出石城跡に上ってみたり、蕎麦アイスを食べたり。この田舎っぽさは嫌いではなかった。

続いて、天橋立へ行った。予定になかったんだけど、こっちの方が印象に残った。遊覧船に乗って対岸に移動して、リフト(あるいはケーブルカー)で山頂に向かい、そこで股のぞきをする、というのが基本パターンのようだ。天橋立のいわゆる橋の部分、つまり砂州砂州砂嘴・陸繋島は高校地理でやりましたね)を歩くという手段もないではないようだが、想像以上に長いので現実的ではないみたい。ちなみにここは砂州だから、端が途切れていて、橋で繋がっている。この橋も廻旋橋として有名である。

まず船での移動。これが良かった。行きしなに私が乗ったのは船尾にデッキがあるタイプの船。どんどん離れていく岸の様子や水に反射する太陽の光は、まるで映画の別れのシーンのような趣があって私は思わず涙をこぼしそうになった。この演出を盛り上げるのが、船を追いかけてくるカモメたちである。実は船内でかっぱえびせんが販売されていて、このカモメたちは観光客たちにすっかり餌付けされているようなのだ。彼らは人間にぶつかっちゃいけないんだな、ということを弁えたような振る舞いを見せ、我々と絶妙な距離を保ちながら、空に放たれるスナック菓子に食らいつく。海に落ちてしまったものも、残らず回収する。こいつら、こんなに必死で飛んでたら余計に腹が減るだろと思うが、間近で見るカモメの美しさは、船上の光景をますますドラマチックに彩る。料金追加で高速船にも乗れるらしいが、わざわざお金を出して旅を味気ないモノにするなんて勿体ない話である。

次にリフト。ケーブルカーは待ち時間もあるし、リフトの方が解放感あるし、ということで。こんなの久しぶりに乗った。座席部分と地面の間に足を挟まれるんで、座ったらすぐに足を上げろといわれるんだけど、思い切り失敗した。降りるときも、赤い円で降りて左に捌けろと言われたのに、赤い円の外で降りてしまう。なんだこの鈍くささは。ちなみに、帰りのリフトでも、もの凄くぎこちない乗り降りになってしまった。

山の上から股のぞき。リフトを降りてすぐの場所と、そこから階段を上がったところの二つポイントがある。高いところの方が景色は良いんだけれど、股のぞきをすると木が邪魔なので、リフトを降りてすぐのところの方が天に架かる橋は綺麗に見えると思う。天気も良かったし、多少自分の想像力も付け加えると、本当に天地が逆転して見える。昔の人は面白いこと考えたよなと感動した。

出石でもそうだったけど、こういう有名観光地ってどこに行っても昭和の匂いが残っていて、祖父母とか両親の世代との繋がりを感じるし、自分が旅行に連れて行ってもらった幼いあの頃とも繋がっているような気がして、これが懐かしいということなのかも知れない。

帰りの船は、二階がデッキになっていて、一階が船室、その周囲が通路になっているタイプの船だった。最初は二階にいたが、すぐに下に降りた。やかましい中国人が船上で真上にえびせんを放り投げるから、そこに飛んでくる水に濡れたカモメのしぶきを浴びる羽目になったのだ。でも私も飽き足らず、一階の通路からまた餌遣り。船と並んで飛ぶカモメの姿は、行きに見た様子と違って、またいとあはれなり。鴨川藝術大学の名前を、鴎海藝術大学にしようかしら。

ひとつだけ、観光しながらずーっと思っていたんだけど、私は昔から、本当に小さな頃から、旅行をするとなんだか寂しい気持ちになるのだった。うわーっ、楽しい!! ってならない。そこに没頭できない。もちろん楽しいのである。でも、なんか寂しいんだ。この正体は一体何なのだろう。出会った人と、訪れた場所と、過ごした時間と。それらに触れた瞬間にもうそれらが消えてしまうことを意識してしまうのかな。

だとしたら、「楽しい時間を過ごすと、空白だった自分の人生が強調されるようで余計辛い」というのは、単に「どこにでも寂しさを見いだしてしまう」という私の性格の延長にあることになるんじゃないかな。ただ、この空白は辛いんだけれども、私はそもそも寂しさとかもの悲しさを、楽しさとか喜びみたいなものより、綺麗で美しいと思っているのかも知れない。