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京都鴨川藝術大学

Kyoto Kamo River Imaginary University of the Arts

うきぬしづみぬゆられければ

もし人生がとんとん拍子に進んでいたら私はどうなっていたのだろう。京大に行きたいと思っていたから、きっと京大に行っただろう。学部は多分、なんとなくで法学部を選んだはずだ。それまでにいた友達との付き合いも続いていただろうし、大学で新しい友人も何人かできたかも知れない。彼女だってできたかも。垢抜けた生活というとちょっと違うけれど、大学生らしい毎日。知らない街の知らない店に入って、遅くまであーでもないこーでもないと無駄話をしたりして。今まで人の子どもだったのが、一人の大人になったような感じ。青春といわれる時期が終わりを迎える直前に、一気に燃焼してまぶしく光って、その光を頼りにして次の場所を探す、みたいな。

人生に失敗し倒したいま、そんな「とんとん拍子の人生」はよだれが出るほど羨ましい。けれど、ふと冷静になってみると、その人生も早晩行き詰まっていたのではないかと思う。心から好きだと言えるものなんてなかったし、無目的で生きていたからだ。良い学校へ行き、良い会社へ行き、良い女性と結婚し、良い子どもを設け、良い家に住み、良いものを食べる。それはそれで得がたいし、羨ましい。でも、言ってみればそれは他人の人生ではないのか。他人が理想とするものを自らの理想と思い込んでいるだけだ。いつかふと思うに違いない。自分が生まれてきた理由は何なんだろうって。そして人生が急に虚しくなってしまうんじゃないだろうか、まぁ、どうせ今も悩んでいるのだから、それならとんとん拍子に行っている方がいい気もするが、豊かになっても幸福度はそんなに上がらないのである。

おかしな話だ。失敗を慰めるために劇を見ている。失敗したから劇が好きになった。失敗して初めて、自分の人生らしいものが立ち上がってきたのだ。希望があるから絶望があるんじゃなくて、将来に望みがない故に○○したいという望みが生まれてくる。だったらもっと早く自分が○○したいと思っていることに気づければ良かったのに、そう上手くいかないのが人生なのだろう。

希望が絶望を撥ねのけたり、絶望が希望を飲み込んだり。大半が後者で、失ったものの大きさに堪らなくなり、もうどうしようもないと落ち込むばかりだが、たまに前者がやってくる。穏やかな気持ちで毎日暮らすのと、浮いたり沈んだり(大半沈んでるけど)しながら暮らすのと、どちらが幸せなんだろう。どっちが生きている感じがするんだろう。