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京都鴨川藝術大学

Kyoto Kamo River Imaginary University of the Arts

疑問と理由をつなぐ

映画好きを自称する私のレベルが知れてしまうだろうが、好きな映画の一つに『青天の霹靂』がある。ダメダメな人生を送る壮年の主人公が、自分の生まれる前の世界にタイムスリップして父親と出会い、そこで自らの出生の秘密を知る、という超が付くほどベタな映画だ。

しかし、この映画を見ると、ありきたりだとか先が見えるとか手垢にまみれている、ということが必ずしも映画にとってマイナスでないことがよく分かる。大事なのは、そのベタな話をいかに要領よく、かつ分かりやすく、メリハリを付けて語るか、なのだ。

例えば、冒頭から雷に打たれて過去に飛ぶまでの数分間、いわゆるアバンタイトルの部分が見事だ。観客はこの冴えない主人公が生きる意味を見失っていることをハッキリと理解し、そしてこの主人公と共に映画の世界に飛び込んでいくことになる。

とりわけ作り手の観点から重要なのは、ここで主人公が「なんで俺なんか生きてんだよ」と疑問を発していることだ。つまりここで、これからこの映画で主人公は自分の生きる理由を探すのだ、と宣言されているのである。そしてこれと対応するように、終盤、主人公は自分を生もうとする母親に対し「(あなたが産んでくれたこと)それが生きる理由です」と話す。

疑問と理由がドラマの骨格なのだ。疑問は提示されると同時に、理由を予感させる。というより、疑問のうちに、既に理由の明示が含まれている。この、疑問と理由をつないだものがドラマだ。疑問と理由の間にある飛躍を埋めるのが、劇を書く人間の仕事だ。なお疑問と理由は、問題と答えとは厳密には違う。理由は正しいものである必要はないからである。尤もらしければ十分、納得できれば立派である。

書けない原因もこれでよく分かる。疑問に対する理由が見つからないのだ。それは確固たる答えである必要はないのだから、つまり暫定的な答え(=理由)であれば十分なのだから、と頭では分かっているつもりだが、いざ話を作ろうと思うと、自分に引きつけてモノを考え、その結果、理由が見つからない。そりゃそうだ、それが分かっていたら私はこんなに悩まないし、映画なんて見ないからだ。

物語はもっと気楽に、というと少し違うが、自分から離れた場所で書く必要がある。自分であって自分でない人間。やはり演技力。また同じところに行き着いた。