京都鴨川藝術大学

Kyoto Kamo River Imaginary University of the Arts

美意識と可能性

シナリオという表現方法には「映像にならないものは書くな」という不文律がある。これは小説とシナリオの違いを理解していない初心者を指導するための標語であり、文学的表現の排除を主たる目的としたもので、新井一が言い出して人口に膾炙した。確かに、シナリオの体をなしていない酷いホンというのは沢山あって、それが撮る人間の書いたものならともかく、脚本作りの職人がやっちゃあそれこそ話にならない。

ただ、映像にならないからといって全部カットして書かないというのはどうだろう。直接カメラで捉えられないとしても、それは演技や演出の方向性を示し、結局は映像になるのではないだろうか。実際、数多の脚本家が平気でこの禁を犯しているのである。

「死ぬ前にもう一度会いたい、その一心で太郎は走っている」などというト書きがあったとすれば、それは最悪だと言われる。映像としては、走っている太郎の姿しか表現されない。死ぬ前にもう一度会いたいという太郎の心情は、画には表れないというのだ。そうだろうか。そんなことはない、と私は思う。役者は死にゆく大切な人を思い浮かべて演技をするし、カメラもそのつもりで彼を追いかけるだろう。結果として、それはきちんと表現されるのではないか。

だがしかし、私自身はシナリオに、文学的表現や演技演出を意図するような表現は、一切書かないことにしている。それは映像にならないものは書かない、というルールを絶対視しているからではない。美意識と可能性を考慮した、控えめな書き手の矜持である。

つまり、書き手は、そのような表現を用いずとも演技演出の意図が伝わるようなホンを書かなければならない。その意図は押しつけられることなく、仄めかされることによって、役者や演出家の無意識のうちに忍び込み、書き手の想像を超えた具体的表現となってあらわれるのだ。

先の例をもう一度使えば、大切な人がもうじき死ぬこと、太郎がもう一度その人に会いたいと思っていることなどは、ト書きで書く以前に物語の構造として示しておかなければならない。だから、「書き手の美意識」と「可能性の考慮」という二つの原則に則り、ここでは「太郎、走っている」とだけ書けば十分なのである。

というワナビーの机上の空論であった。