京都鴨川藝術大学

Kyoto Kamo River Imaginary University of the Arts

言葉で画を描く

自分が脚本を作るときのことを考えてみた。日頃、物語物語と私は言っているが、私は物語を書こうとしていないのではないか。書けないのは、書こうとしていないからではないか。どういうことかというと、私は言葉で画を描こうとしているのである。

例えば今日、家族で祖父母の家を訪れた。もう二人とも年である。あと何回会えるのか分からない。こんな風に家族でこの家を訪れるのはもう最後になってしまうかも知れない。小さな頃のことが思い出されたりして、懐かしくて切なくて。

じいちゃんばあちゃんはずっとじいちゃんばあちゃんだったけれど、あの頃は若かったんだなぁ。私もこんなに年を取って、二人はますます年老いて、こうやって人生が終わって、次の人間に引き継がれて、この瞬間はどんどん遠くに行ってしまって。こんなまとまらない気持ちが、言葉にならない気持ちが、この瞬間この空間に溢れている。

やることもなくて退屈だなぁなどと思ってしまった自分に嫌気がさしたり、そんな私たちの様子を察してか次から次へと食べ物を勧めてくるばあちゃんのことを思い出したり、そんなばあちゃんに「お腹いっぱいだからいいよ」と可愛げ無く返答してしまった自分を後悔したり。寂しさが自分に向かって攻撃してくるようである。

私は、こういう情緒を頭で画にする。これを絵に描ければいいのだけれど、それが出来ないから私は言葉を使う。今日で言うなら、車に乗り込んで、じゃあねと言って別れるときの、ばあちゃんの表情。家を離れていくのを、ばあちゃんが見送ってくれて、その姿が小さくなっていく。この西日でオレンジに染まった光景が、私の心を全て説明してくれるような気がする。

自分が脚本を書くとき、まずこういった画が思い浮かぶ。そこには、言葉に出来ないような、まとまらない情緒が漂っていて、物語という論理で整えられることをまず拒む。というより、その画は、そこから発展させることも出来ず、そこに着地させることも出来ない代物なのだが、しかし、その画こそが私の思いの全てであって、創作の根本動機なのである。