京都鴨川藝術大学

Kyoto Kamo River Imaginary University of the Arts

ノータリンを歌う

名もなき詩』で思い出したのが、ドラマ『ピュア』。どんな話だったのかは忘れてしまったが、最終回を録画して何度も見直し思い切り泣いたことと、その最終回で高橋克典が大粒すぎる涙を流したことだけは良く覚えている。

確かストーリーはこんな感じ。軽度の知的障害を抱えるものの芸術的才能に恵まれた和久井映見がマスコミの注目を浴びるようになる。社会に出られて良かったと喜ぶ家族たちだったが、取材の過熱ぶりを見て徐々にマスコミに不信感を抱き始める。そのマスコミの一人だったのが堤真一で、彼は暗い過去ゆえに人に対して心を閉ざしているのだが、和久井映見だけが彼の純粋で優しいことを見抜く。二人は互いに引かれ合っていくのだけれど――。こんな感じだった気がする。

取材対象とマスコミ、純真無垢な女と辛酸をなめた男、という対立構造を使って、つかず離れずを繰り返すような物語だろう。和久井映見には恋愛の概念はないし、堤真一にとっても彼女は純粋な恋愛の対象にはなれない。だから、二人が結ばれてハッピーエンドにはならない。ただ、堤真一は彼女の存在によってもう一度人を愛する気持ちを取り戻そうとするし、少々安易とは言えその堤真一が最後に事故死することで、和久井映見は初めて人の死を理解し、その悲しさに涙を流す。いや、多分そんな話だったと思う。

これは、きっと私が好きな劇の構造なんだと思う。ずっと自分の内側にあったもの、ずっと忘れていたものを、最後の最後に改めて見つける、という劇構造だ。『八日目の蝉』『青天の霹靂』全部これじゃね?

何が言いたいかと言えば、私の好きなものはやはり変わっていないということだ。むかし見たものを、大きくなってから見直すことがあるでしょう。下らねえものを見ていたんだな、と思うこともしばしばだけれど、むかし見て好きだったものは、大人になってみてもやっぱり好きだったりする。当時よりきちんと理解したり、より深く理解したり、全く別の見方をしたり。今なら分かることを当時は分かっていなかったけれど、しかし、それに惹かれていた自分がいる。当時の自分と今の自分、変わったものと変わらないものを知ることで、本当の自分の好きなものが見えてくる。

脚本は『青天の霹靂』の橋部敦子。変わらないものがあるというか、成長していないとも言えるのかも知れないが、私はやっぱりこういうのが好きなんだろう。ミスチルが主題歌歌ってるのも同じだし。

ちなみに、『名もなき詩』に「ノータリン」というフレーズがあるのをこのドラマに採用するなんて、当時からフジの人間はそれこそ頭がおかしかったんだと思う。